› 自然と歴史の中を歩く! › 2018年10月
2018年10月31日
磐田と煙草①―喫煙の風俗
「見付たのしい文化展」が開催されたのは、10月27日(土)・28日(日)。私も、佐口行正さんが資料を提供した「明治時代のタバコパッケージ」展の応援として参加。これまであまり知る機会がなかった磐田と煙草の歴史について、勉強することができました。
ヨーロッパから日本に煙草が伝来したのは、鉄砲伝来などとほぼ同じ16世紀末。その後、早い段階で喫煙の習慣が広がり、九州地方では葉煙草の栽培も始まりました。
当初の喫煙は刻み煙草を雁首に詰めて吸う煙管。太いパイプにたっぷりと刻み煙草を詰めて吸う欧米に喫煙と比べ、小さな火皿と細い吸口の煙管は、日本独特の風俗として全国に広がり、すでに江戸時代の初めには磐田でも葉煙草の栽培が始められたそうです。
ヨーロッパから日本に煙草が伝来したのは、鉄砲伝来などとほぼ同じ16世紀末。その後、早い段階で喫煙の習慣が広がり、九州地方では葉煙草の栽培も始まりました。
当初の喫煙は刻み煙草を雁首に詰めて吸う煙管。太いパイプにたっぷりと刻み煙草を詰めて吸う欧米に喫煙と比べ、小さな火皿と細い吸口の煙管は、日本独特の風俗として全国に広がり、すでに江戸時代の初めには磐田でも葉煙草の栽培が始められたそうです。
江戸時代の磐田を絵にした廣重の「保永堂版東海道五拾三次之内 見附」では、天竜川の渡し船の客を待つ船頭が、廣重・三代豊國の「雙筆五十三次 見附 舩渡」では旅人と思われる男女が煙管を咥えて一服。喫煙の習慣が庶民の間にも広がったことが分かります。
2018年10月31日
2018年の「掛塚まつり」⑯―神楽箱
神輿の後に続き、渡御の最後尾を務めるのは、東町の神楽箱と呼ばれる小型の屋台。神楽囃子に乗って曳かれます。
現在の神楽箱は2代目ですが、明治27年(1894)、曽布川藤次郎が棟梁を務めて造った先代の神楽箱が、本町の旧双木時計店に展示されていました。獅子に力神が乗って屋根を支える木鼻彫刻を造ったのは、立川流に学んだ「不易堂重直」こと鈴木傳重郎。
かつては、神前で獅子舞を舞ったとのことですが、その獅子も旧双木(なみき)時計店に展示されていました。
現在の神楽箱は2代目ですが、明治27年(1894)、曽布川藤次郎が棟梁を務めて造った先代の神楽箱が、本町の旧双木時計店に展示されていました。獅子に力神が乗って屋根を支える木鼻彫刻を造ったのは、立川流に学んだ「不易堂重直」こと鈴木傳重郎。
かつては、神前で獅子舞を舞ったとのことですが、その獅子も旧双木(なみき)時計店に展示されていました。
それにしても、2代目神楽箱は、初代神楽箱を見事に再現したものです。
2018年10月31日
昭和18年の秋葉山大火⑤―湯を沸かした残り火から火が出た
上の秋葉神社の社殿も何も焼けちやったでの。まぁ三尺坊(秋葉寺)の庫裏や本堂の建物が残ったっていうのは、それやぁえかったヾいのぉ。それよぉ不思議なこんだって言う人も居るがの、それもそうだと思ったゞいの。
あの山火事じやぁ、わしらぁ何日出て働いたもんか、もうすっかり忘れちやったなぁ。それからしばらく後はの、山火事のことで方々で話が出たがの。何せ戦争中のこんだったんで、そっちの方が大変で、肝心なことで、今ん見たいに事が起きりやぁ、それから何時までも騒いでるっていう様なこたぁなかったゞいの。
そんだで誰が火を出したゞの、それやぁ何処の人だの何ていう様なこたぁの、案外、そう広くに言われもせずに済んだゞいの。
何百町歩か、山ぁえらく広く焼けたことだで、火を出した本人はの、大変なことだでって、心配したゞいの、皆んなが。
わしらぁ知らんが、この町の人で、何でも平山鉱山で働いてゝ、それが二人で十時の飯時に湯を沸かした残り火から火が出たっていうことぉ聞いた、よかぁ知らんがの。
そんでその人も直ぐと、何処っかへ出て行ったていう話だで、もうそれこそ知ってる人もないんだいの。(木下恒雄著「山の人生 川の人生」より)
◆ ◆ ◆ ◆
これが、昭和18年(1943)の秋葉山大火の真相。早いもので今日(3月11日)は、「東日本大震災」発生から丸1年。そして明後日には、春の強風に煽られた大火が秋葉山を襲った3月13日がやって来ます。
古い絵葉書に写る「(遠江國)秋葉神社拝殿正面景」も、「遠州秋葉神社本殿」も、現在はありません。
それでも、私は秋葉山に登ります。神頼みや信心と言うよりも、自然に浸り自分を見つめ直す時間として、私は今年も秋葉山に登ります。
あの山火事じやぁ、わしらぁ何日出て働いたもんか、もうすっかり忘れちやったなぁ。それからしばらく後はの、山火事のことで方々で話が出たがの。何せ戦争中のこんだったんで、そっちの方が大変で、肝心なことで、今ん見たいに事が起きりやぁ、それから何時までも騒いでるっていう様なこたぁなかったゞいの。
そんだで誰が火を出したゞの、それやぁ何処の人だの何ていう様なこたぁの、案外、そう広くに言われもせずに済んだゞいの。
何百町歩か、山ぁえらく広く焼けたことだで、火を出した本人はの、大変なことだでって、心配したゞいの、皆んなが。
わしらぁ知らんが、この町の人で、何でも平山鉱山で働いてゝ、それが二人で十時の飯時に湯を沸かした残り火から火が出たっていうことぉ聞いた、よかぁ知らんがの。
そんでその人も直ぐと、何処っかへ出て行ったていう話だで、もうそれこそ知ってる人もないんだいの。(木下恒雄著「山の人生 川の人生」より)
◆ ◆ ◆ ◆
これが、昭和18年(1943)の秋葉山大火の真相。早いもので今日(3月11日)は、「東日本大震災」発生から丸1年。そして明後日には、春の強風に煽られた大火が秋葉山を襲った3月13日がやって来ます。
古い絵葉書に写る「(遠江國)秋葉神社拝殿正面景」も、「遠州秋葉神社本殿」も、現在はありません。
それでも、私は秋葉山に登ります。神頼みや信心と言うよりも、自然に浸り自分を見つめ直す時間として、私は今年も秋葉山に登ります。
「秋葉山から火事」と言えば、 「火消しの家にも火事」と同義のことわざ。「防火」の守り神として知られる秋葉山から火が出ることもあるように、人を教え導くはずの人が、人に教え諭したことと同じような過ちを犯すこともある」という意味です。火元には、くれぐれもご注意ください!
2018年10月31日
秋の葦毛湿原⑥―キセルアザミとスズカアザミ
アザミの種類分けは大の苦手ですが、重たげな頭花を垂れるように咲いているのはキセルアザミ(右の写真)。枝分かれした茎の先に花を咲かせているのはスズカアザミ(左下の写真)のようです。
葦毛湿原の「葦毛(いもう)」とは、馬の毛色を表す「葦毛=芦毛(あしげ)」に由来。源頼朝がこの地を訪れた時、頼朝の乗った葦毛の馬が死に、愛馬を葬った地に「あしげ⇒葦毛」の地名を付けたのだそうです。
葦毛湿原の「葦毛(いもう)」とは、馬の毛色を表す「葦毛=芦毛(あしげ)」に由来。源頼朝がこの地を訪れた時、頼朝の乗った葦毛の馬が死に、愛馬を葬った地に「あしげ⇒葦毛」の地名を付けたのだそうです。
私は頼朝ではありませんが、季節を追って足繁(あししげ)く通っています。
2018年10月31日
舞坂宿「往還通り」を歩く③―一里塚址
「見付石垣」の先に残るのは「一里塚址」。「舞阪郷土史研究会・浜松市」の解説看板によれば・・・
江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として1里(約3.9㎞)ごとに、道の両側に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が整備されていった。
一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。舞坂は一里塚は、日本橋から68里(約267㎞)に位置し、松が植えられていた。
江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として1里(約3.9㎞)ごとに、道の両側に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が整備されていった。
一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う目安にもされた。舞坂は一里塚は、日本橋から68里(約267㎞)に位置し、松が植えられていた。
現在、土盛りは残っていず、「一里塚址」の標柱が建てられているだけ。それでも、舞阪の町歩きをする人なら、一旦ここに立ち止まり、いにしえの旅人に思いを馳せていただきたいと思います。
2018年10月31日
鳳来寺を訪ねる⑳―鳳来寺本堂の隠れ❤ハート
田楽堂から見晴らした山々のほぼ中央に、木を伐採した跡が見えます。気づきませんか?❤の形です。意識的に❤型に伐採したのか?それとも、たまたまなのか?は不明。
2018年10月30日
地域がかける期待 伝統の秋祭りに外国人―プライムニュースしずおか
昨日(10月29日)夕方のテレビ静岡「プライムニュースしずおか」の「地域がかける期待 伝統の秋祭りに外国人」と題した特集で、「掛塚まつり」に地元の会社で働くフィリピン人女性たちが参加した話題が取り上げられました。
フィリピン人女性が祭りに参加したのは蟹町の屋台。法被にワッペンを着けるところから始め、お囃子の太鼓を練習。「ワッショイ!ワッショイ!」と声を揃えて屋台を曳き、地域の住民たちとの交流の機会を楽しみました。
人口の減少と少子化により、祭りの存続が危ぶまれている中、日本で暮らす外国人たちに祭りへの参加の門を開くことは、日本の文化を理解してもらうきっかけにもなります。祭りを通してお互いに顔を知り合うようになることは、防災の点でも重要なこと。
フィリピン人女性が祭りに参加したのは蟹町の屋台。法被にワッペンを着けるところから始め、お囃子の太鼓を練習。「ワッショイ!ワッショイ!」と声を揃えて屋台を曳き、地域の住民たちとの交流の機会を楽しみました。
人口の減少と少子化により、祭りの存続が危ぶまれている中、日本で暮らす外国人たちに祭りへの参加の門を開くことは、日本の文化を理解してもらうきっかけにもなります。祭りを通してお互いに顔を知り合うようになることは、防災の点でも重要なこと。
初めて曳いた屋台、初めて叩いた太鼓のリズム。「太鼓をもう1回やりたい」と語る技能実習生のフィリピン人女性、「効果満点だった」と語る自治会長さんの笑顔が、日本の抱えている課題解決へのヒントになっているはずです。
2018年10月30日
災害にめげず咲く秋葉山の花④―「秋葉の火まつり」は12月15日、16日
秋葉神社上社の倒木伐採作業については、すでにお知らせした通り。1日も早く倒木を片付けなくてはいけない大きな理由は、12月15日、16日に開催される「秋葉の火まつり」にあります。
「秋葉の火まつり」を前にした秋葉神社上社には、この日(10月26日)にも団体バスが訪れ、ご祈祷を受けてお札を受け取って帰る人が次から次へとやって来ていました。
秋葉山の紅葉は、社務所の前のドウダンツツジが赤く色づき始めていましたが、全体には、まだ少し早いようです。もうすぐ、秋葉山が1年で1番輝く季節がやって来ます。
「秋葉の火まつり」を前にした秋葉神社上社には、この日(10月26日)にも団体バスが訪れ、ご祈祷を受けてお札を受け取って帰る人が次から次へとやって来ていました。
秋葉山の紅葉は、社務所の前のドウダンツツジが赤く色づき始めていましたが、全体には、まだ少し早いようです。もうすぐ、秋葉山が1年で1番輝く季節がやって来ます。
倒木の片付けも進んでいますので、安心して秋葉神社上社にいらしてください!地域固有種のエンシュウハグマも待っています!
Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at
05:44
│Comments(0)
│野の花・植物│歴史・産業遺産・寺社・文化財│秋葉山・AKG(秋葉観光ガイド)│祭り・イベント・民俗芸能・伝統行事
2018年10月30日
2018年の「掛塚まつり」⑮―神輿渡御
神幸行列は貴船神社を出て、掛塚の9町を回り、蟹町の御仮屋まで巡行します。そして、御神体を乗せてお渡しするのが神輿。現在の神楽は、平野又十郎生家である林邸や、浜松市浜北区にあった「森岡の家」なども建てた名工、鈴木勇次郎が棟梁を務め、明治14年(1881)に造られたものです。
祭りの文化は、江戸や京都から伝えられたものかも知れませんが、天竜川を下った良材と大工や彫物師など木を扱う職人たちの技術が集積した地、掛塚だからこそ可能となったのが屋台祭り。
祭りの文化は、江戸や京都から伝えられたものかも知れませんが、天竜川を下った良材と大工や彫物師など木を扱う職人たちの技術が集積した地、掛塚だからこそ可能となったのが屋台祭り。
材木商たちは、最高の良木を提供し、大工たちは持てる技術の粋を惜しみなくつぎ込み、豪華な神輿を造り、屋台を造ったのです。宝永4年(1707)製作とされる旧神楽は、現在も神社宝庫で大切に保存されています。
2018年10月30日
昭和18年の秋葉山大火④―自然の鎮火待つしか方法がない
火事の事の方はどんな具合いだったかも、今んなっちやぁ細かいこたぁ忘れちやったがの、とにかく直ぐとは人の手が付けられん、火を消すことが出来んということだったゞいの。
それと三月のことでの、あの日は風が吹いて、吹いての。西に向かった火はの、気田川を越えてだよ、笹子(さゝご・現天竜市)の上っ側にも移ったって言ってたで、風も強かったが、それに火勢もおおきかったゞいのぉ。
何んしょ戦争中のことだで、消防団で出る衆にしても、若いもん(者)の数は少なかったでの、今ん見たいにヘリコプターがある訳じやぁなし、それに山の高いとことなれやぁの、ポンプ車(当時は手動の手押し車)なんか、とても使えなんだでの。
当時、山火事ぉ消すのを先頭に立ってやった衆は、警防団だいの。あのこらぁ消防を警防団って言ってたでの。
山火事よぉおさめるにやぁ、一番にやぁ火道よぉ切る、まぁその前にやぁ防火線というを伐ること、それよぉ作って在れやぁ、それが火道よぉ切るっていうことになるんで、そんでそこで火の勢いを抑えることが出来るんだがの。
秋葉山の場合にやぁ、防火線というが、方々に伐って在ったと思うがの。昔やぁ頼まさって専門にやってる衆が居たがの。
山火事はの、大概、自然の鎮火、これよぉ待つしか方法がないっていうのが、普通だいの。秋葉山の火事の時にやぁ、自然とおさまったとこもあったんじゃあないのかの。そんでもあん時やぁ、大事(おゝごと)になったもんだいのぉ。(木下恒雄著「山の人生 川の人生」より)
◆ ◆ ◆ ◆
山火事が起きた場合には、今でこそ空中から消火剤を撒く方法もあるでしょうけど、消火に必要な水の運搬もままならず、類焼を抑えるために樹木を伐採し、自然鎮火を待つしかなかったのです。
昭和18年(1943)3月13日は、今から69年前。当時のことを知っている人も少なくなって来ているはずです。
それと三月のことでの、あの日は風が吹いて、吹いての。西に向かった火はの、気田川を越えてだよ、笹子(さゝご・現天竜市)の上っ側にも移ったって言ってたで、風も強かったが、それに火勢もおおきかったゞいのぉ。
何んしょ戦争中のことだで、消防団で出る衆にしても、若いもん(者)の数は少なかったでの、今ん見たいにヘリコプターがある訳じやぁなし、それに山の高いとことなれやぁの、ポンプ車(当時は手動の手押し車)なんか、とても使えなんだでの。
当時、山火事ぉ消すのを先頭に立ってやった衆は、警防団だいの。あのこらぁ消防を警防団って言ってたでの。
山火事よぉおさめるにやぁ、一番にやぁ火道よぉ切る、まぁその前にやぁ防火線というを伐ること、それよぉ作って在れやぁ、それが火道よぉ切るっていうことになるんで、そんでそこで火の勢いを抑えることが出来るんだがの。
秋葉山の場合にやぁ、防火線というが、方々に伐って在ったと思うがの。昔やぁ頼まさって専門にやってる衆が居たがの。
山火事はの、大概、自然の鎮火、これよぉ待つしか方法がないっていうのが、普通だいの。秋葉山の火事の時にやぁ、自然とおさまったとこもあったんじゃあないのかの。そんでもあん時やぁ、大事(おゝごと)になったもんだいのぉ。(木下恒雄著「山の人生 川の人生」より)
◆ ◆ ◆ ◆
山火事が起きた場合には、今でこそ空中から消火剤を撒く方法もあるでしょうけど、消火に必要な水の運搬もままならず、類焼を抑えるために樹木を伐採し、自然鎮火を待つしかなかったのです。
昭和18年(1943)3月13日は、今から69年前。当時のことを知っている人も少なくなって来ているはずです。
古い絵葉書は、ともに秋葉神社の「中門」の写真ですが、「遠州秋葉神社 中門 曲淵寫眞館製」は明治40年代、「秋葉神社 中門 社務所發行」は昭和10年代の撮影。石の燈籠の前に狛犬が建てられています。