› 自然と歴史の中を歩く! › 2019年02月

  

2019年02月28日

早春の小國神社境内地の自然③―キタテハとルリタテハ

キタテハ ハルリンドウの花を眺めていたら、舞って来たのはキタテハとルリタテハ。両種とも成体のままで冬を越す蝶です。

ルリタテハ キタテハは翅の縁のギザギザが深く、オレンジ色も鮮やか。ルリタテハは色の濃く、どことなく野生的。どちらも、覚悟を決めて冬を越した個体ですが、その割に傷みは見られません。

 寒い冬を過ごした蝶たちは、早春の陽射しをいっぱいに受け、冷えた体を温めようと翅を大きく広げていました。

  

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2019年02月28日

2019年、早春の野の花④―ツクシ

ツクシ 最近、テレビでもツクシのレポートを見かけるようになりましたが、実は、ツクシはもうとっくに出ています。

 誰もが知っているツクシですが、ツクシという名の植物はありません。本当は、トクサ科のスギナ。ツクシはスギナの胞子茎。「野の花」として紹介するのは間違いかも知れません。

  

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2019年02月28日

磐田に残る家康の足跡⑥―兜塚古墳

兜塚古墳 逸話の中には、史実とは異なると思われるものがたくさん残されています。しかし、思い付きの逸話だったとしても、長年言い伝えられている裏には、地元で暮らす人たちの思いが込められているのは間違いのない事実。兜塚古墳なども、そんな例かも知れません。

 「兜塚」の名の由来には、一言坂で武田の軍に追われて退却する徳川家康の家臣本多忠勝が、古墳のある場所の木の枝に兜を掛けたことによる、と伝えられてはいます。

 ところが、現地に建てられた看板には「名前の由来 兜塚古墳は古くから兜塚の名前で知られており、古墳の形が兜を伏せた状態に似ているところから、この名前が付けられたといわれています。」と、逸話の内容を意識したような解説が書かれています。

 兜塚古墳は円墳で、見ての通り兜の形。「家康の足跡」が残っているとは言えないかも知れませんが・・・。

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2019年02月28日

佐久間・大滝を歩く⑧―八坂神社

八坂神社 結局は道に迷い、今来た道ではなく別の道を辿って集落まで帰り着きました。ところで、大滝の神社はどこ?

 以前、「大輪には元々、鉱山関係の山神社がまつられていましたが、閉山と同時にたぶん久根の方へ移し、地元の八坂神社(大滝より降ろした)が残っています」と聞いたことがありましたので、大滝にはもう八坂神社はないとばかり思っていましたが、ありました!

八坂神社 社殿は決して神社らしい造りではありません。奉納された1対の狛犬は「平成七年十二月吉日」の文字が刻まれている新しいもの。八坂神社の坂は「阪」ではありませんので、大輪の八坂神社と同じ。もしかしたら、一端は大輪に降ろし、その後、再建されたものかも知れません。

 社殿は西向き、鳥居から続く参道は南向きですが、限られた平らな土地に鎮座しているのですから、仕方がありませんね。

 以上、「佐久間・大滝を歩く」でした。

  

2019年02月28日

10周年の秋葉山ハイキング⑩―随身門

随身門 途中、ずいぶんのんびりと道草をしたにも関わらず、秋葉神社上社の入口に立つ随身門が見えて来たのは、歩き始めてから2時間10分後。背中のリュックには、「秋葉茶屋」に届ける赤い小石を2袋詰めていましたので、かなりの重さだったのですが・・・。

 昨年秋の台風25号によって甚大な被害を受けた随身門には足場が組まれているのはすでに見ていましたが、この日は足場に登る人影も見られました。誰?何をしてるの?

随身門 随身門にいたのは、宮大工の天峰建設社長の澤元教哲さんたち。この日は補修に関する調査をしていたとのこと。壊された軒先だけでなく、経年の老朽化による歪みや傾きも見られ、この際、気が付いたすべてを補修する考えのようです。

 これが、受け継いだ文化財を次の時代に自信をもって申し送る私たちの責任。時間はかかりそうですが、期待したいと思います。

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2019年02月27日

早春の小國神社境内地の自然②―ハルリンドウ

ハルリンドウ いつものように宮川に沿った道を歩き、日当たりがよい場所まで出ると、目にも鮮やかな青紫色の花が咲いていました。これは、リンドウ科リンドウ属のハルリンドウ。春咲きリンドウの仲間です。

 ハルリンドウは雌雄異熟の両性花で、雄性先熟。写真の花はまだ咲き始めたばかりのようで、雄蕊しか見られませんでしたので、雌蕊は雄蕊の下に隠れたまま。もう少したち、雄蕊が花粉を出す時期になれば、雌蕊も見られるはず。

 リンドウと聞くと、何となく秋の花のように思ってしまいますが、春には春のリンドウが咲くのです。

  

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2019年02月27日

2019年、早春の野の花③―キュウリグサ

キュウリグサ キュウリの花に似ているわけでも、キュウリの仲間でもありません。葉を揉むとキュウリに似た青臭い匂いがするからキュウリグサ。小さな小さな花ですが、ワスレナグサなどと同じムラサキ科ですから、なかなか可愛らしい花です。

 気づけばもう咲いているのですが、花が小さ過ぎて気づかれていないかも。でも、私の目は、拡大眼鏡なしでもちゃんと見つけることができました。

  

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2019年02月27日

早春の獅子ヶ鼻トレッキング④―獅子の横顔

獅子ヶ鼻 獅子ヶ鼻公園の名前の由来は、獅子の横顔に似た大岩。辺りの山には礫岩が顔を出している場所が多く、この獅子の顔を形成しているのも丸い礫が詰まった水成岩のようです。

礫岩 おそらく、古天竜川を下って丸みを帯びた礫が太平洋の底に堆積し、長年の続成作用を受けて岩となり、日本列島を形造った造山活動により再び地上に出て山となったのが、獅子ヶ鼻周辺。

 江戸時代には、「獅子ヶ鼻」ではなく「牛ヶ鼻」と呼ばれていたらしく、安政東海大地震(1854)により岩の一部が欠け、以後「獅子ヶ鼻」と改名されたとのことです。

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2019年02月27日

磐田に残る家康の足跡⑤―宣光寺の梵鐘

宣光寺の梵鐘 天下統一を目指す徳川家康と武田勢との合戦が、磐田で繰り広げられた歴史を物語るものとして知られるのが宣光寺の梵鐘です。

 この梵鐘は、天正15年(1587)の戦いで命を落とした多くの武将の供養ため、家康が寄進した梵鐘であり、家康の名が刻字されていたため、戦時供出を免れ、現存している貴重な鐘。「大日本国東海道遠江刕豊田郡見付府奉鑄鐘大地蔵公用」と刻まれ、「大地蔵」は宣光寺の延命地蔵を指し、「公用」とは、この梵鐘が個人的ではなく公式な寄進であることを示していると思います。

「源家康」の刻字 梵鐘の銘文は「旹天正拾五亥年霜天廿四日 大担越源家康敬白」。当時の家康は、永禄9年(1566)に勅許を得てすでに「徳川」を名乗っていたはずですが、「源家康」とは征夷大将軍の官位を望み、公式には清和源氏の出を自称していた証です。

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2019年02月27日

佐久間・大滝を歩く⑦―さくま昔ばなし「彌八山と左伝次山」

 むかし、大滝という所に、二人の兄弟がいました。兄の名前を彌八、弟を左伝次と言いました。兄は、野良に出て畑を耕すにも、いっぷくしてばかりいるので何日も何日もかかりました。雨降りで野良仕事ができない時には、家でわらじを編むのが常でしたが、わらをしっかりたたいてないので、でき上がったわらじは、すぐに切れたりして長く持たせることができません。仕事がうまくいかないと、すぐにかっとなって、どこかに遊びに出かけてしまいました。

 一方、弟の左伝次は、兄とちがってそれはそれは働き者でした。どんなにえらい仕事でも骨身をおしまず、せっせと働くので、兄の耕した畑と弟の畑とはひと目で分かりました。

 ある日のこと、兄は紅葉の美しさに見とれながら、
「どうだ左伝次、あした山芋でも掘りに行こうか。」
と、弟をさそいました。

 二人は、早起きをして山芋のありそうな山に登り、夢中になって掘りました。その掘り方も、気短な兄は、最後まで掘らないので、途中でボキンボキンと折れてしまいます。それに比べて、弟は根の先まで、ていねいに掘ったので、芋のおいしい部分までとることができました。

 家に帰ると、二人は干鮎をだしにして、いもじるを作りました。それは舌づつみを打つほどおいしいものでした。満腹になってしまった二人は、部屋に寝そべってしまいました。そして、そのおなかをさすりながら弟は、
「彌八兄いよ。おれたちは、いつも野良仕事で夜遅くまで働いているが、これというまとまった銭も入らんなあ。どうだ、炭でも焼いて稼いでみちゃあ。そいで、すみがまができるまで、ソバでも作ったらどうかいの。」
と、兄に相談をもちかけました。
「そうだ。そりゃあいいことだ。ソバを作るにゃあ、あのくろうち山がいいぞう。近くにゃあ、小沢山があって、不便はせんぞ。」
仕事嫌いの兄でしたが、儲け仕事と聞いてすぐに承知しました。

 翌朝、二人は道具や食料をしょって小沢山に登りました。そして、まず最初の仕事は、自分たちの住む山小屋作りです。雑木を切って、それを藤づるでしばりつけて骨組みを作り、カヤを集めては、その回りを囲ったり、屋根をふいたりしました。

 小屋ができ、二人の山での生活が始まりましたが、夕方仕事から帰っても、楽しみと言えば、食べることと寝ることだけでした。兄は、
「くたびれた、くたびれた。」
と言っては、めんぱいっぱいの飯をあっという間に平らげてしまいます。でも、弟は、薪の明かりのもとで、鎌をといだり、のこぎりの目立てをしたりして明日の仕事の手はずを整えていました。

 やっと仕事にきりをつけた弟が飯にしようとしたのですが、おかずにするみそは、もう少ししか残っていません。いつもはがまんを重ねてきた弟ですが、この時ばかりは腹にすえかね、
「兄貴だといばって、自分さえたらふく食べればよいのか。」
と、一言兄に文句を言いました。すると、兄は、
「いっしょに食べないお前が悪いのだ。」
と、弟になぐりかかりました。

 とうとう、みそがもとで大げんかになってしまいました。止める人もない山の中なので取っ組み合いになってしまい、なぐったり、けったりで、あげくのはて、気の短い兄が、斧を持ち出して力まかせに、弟めがけて斬りつけてしまいました。あわてた弟は、一瞬その場を逃れようとしましたが間に合わず、その場にどっと倒れ込んでしまいました。
「しまった。えらいことをしてしまった。」

 兄は、冷たくなった弟のそばで、ぼうぜんとすわりこんで動きません。あたりは、しんと静まり
かえり、いろりの炭火だけがまっ赤に燃えているだけでした。
「取り返しのつかないことをしてしまった。あんなことをしなければよかった。」

 後悔しても後のまつり。じっと考えこんでいた彌八は、何を思ったか、大声を張り上げながら、向かいの山へ走って行き、突然持っていた斧で自分の首を斬って果てました。

 その後、誰言うとなく、弟の死んだ山を左伝次山、兄の死んだ山を彌八山と呼ぶようになりました。(「さくま昔ばなし」より)

    ◆       ◆       ◆       ◆

大滝の杉林 ・・・ということで、その彌八山とか左伝次山とかは、この辺りでしょうか?現在では、雑木ではなく杉が一面に植えられています。

  

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