› 自然と歴史の中を歩く! › 2020年02月

  

2020年02月29日

2020年、早春の獅子ヶ鼻公園を歩く①―河津桜と十月桜の競演

河津桜 時折、小雨が降る曇天となった2月28日、磐田市岩室の獅子ヶ鼻公園を歩きました。歩き始めた頃には青空ものぞく空だったのですが、次第に雲が広がり、本当に細かな雨が降り始めましたので、鐘掛岩までは行かず、「野草の小道」との分岐まで、往復で約1時間半ほどのウォーキング。

十月桜 何から紹介しようかと思いましたが、先ずは桜の話題から。「自然ふれあい広場」脇では河津桜が満開でした。そして、昨年(2019)秋から咲き続けている十月桜にも花が残り、「自然ふれあい広場」付近では桜の花の競演が見られます。

獅子ヶ鼻の巨岩 新型コロナウイルス感染の影響で、密閉された室内でのイベントは中止が相次ぎ、観光地へ出掛けるのもためらわれますので、こんな日には自然の中を歩くに限ります。獅子ヶ鼻の巨岩を眺めて、さあ、歩け!歩け!

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:27Comments(0)野の花・植物ウォーキング・ぶらり旅・町歩き地質・地形・岩石

2020年02月29日

秋葉山旧参道を歩く②―三十町の鳥居跡と町石

雲名道 雲名から秋葉神社を目指す道を、果たして「裏参道」と呼ぶべきかどうかは何とも言えません。取りあえず「雲名道」と呼んでおくことにしましょう。

 先ずはその雲名道らしい山道を歩いてはみたのですが、果たしてこれがかつての参道であったのか?それとも途中で道を間違えて作業道に入ってしまったのか?ふと気づくと、アメリカセンダングサやジャケツイバラが茂るブッシュに迷い込んでしまいました。

 結局は林道を歩き、スーパー林道に出て、かつての参道に出たのは、雲名道と戸倉道とが合流する三十町の鳥居跡。何ともやり切れない思いでしたが、上りの参道はここから辿ることになりました。

三十町の鳥居
三十町の鳥居跡

 三十町の鳥居のモノクロ写真は大正15年8月発行の『和享帖』(静岡縣神職會周智郡支部)にも掲載されていますが、写真に写っているのがこの場所だと思います。スーパー林道脇に町石の頭の火袋だけが顔を出しています。残念ながら「第○○町」の文字は地中に埋もれていますが、刻んであるとすれば「第三十町」のはず。

鳥居跡の石組み
「第三十町」と思われる町石

弧を描くこんな石 秋葉山雲名道、戸倉道の町石は、表参道の形とは違い火袋がある常夜燈になっています。しかし、表参道の常夜燈の形と比べると、笠の形が違い、建立された年代も特定できません。

 おそらく石組みで囲んだ場所が鳥居が立っていた跡。近くには他にも加工された石が転がり、中には弧を描くこんな石もありました。さて、何に使われていたのでしょう?

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:25Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財秋葉山・AKG(秋葉観光ガイド)

2020年02月29日

早春の小國神社境内地を歩く④―シタキソウの綿毛

シタキソウの綿毛 昨年(2019)に引き続き、今年(2020)もシタキソウの綿毛と出会うことができました。

 八の字に着くシタキソウの実はすべてが爆ぜていたわけではありませんでしたが、爆ぜた実からは真っ白な綿毛がのぞき、一部は風に舞って近くの枝で一休みしていました。驚くのはその綿毛の長さと美しさ。できれば、綿毛が空を舞う瞬間を見てみたいものです。

シタキソウの綿毛 これだけの長さがあれば、きっと空高く舞い上がることもできるでしょう。高く舞い上がれば、遠くまで飛んで行き、子孫の生育分布域を広範囲に広げることができることでしょう。逆に言えば、狭い範囲に群落を作ることは難しいのかも知れません。

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Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:22Comments(0)野の花・植物ウォーキング・ぶらり旅・町歩き

2020年02月29日

春野に残された戦争の記憶④―「閑静の賦」歓送迎台

「閑静の賦」歓送迎台 美しい山ふところに抱かれて生まれ育った熊切の若人達は、祖国存亡の危機が迫るや憂国の情に燃え、敢然として戦場に向いたり。吾が故郷の安寧と、愛する家族の幸せを念じ、老いたる父や母を残し、孝子と涙の別れを告げて戦場に向った若き出征兵士の胸中は如何ばかりか、察するに余りあり。

 生きて再び故郷の土を踏むこと叶わぬを秘かに決意し、緑なす美しき故郷の峰々を見俯して清らかなる熊切川のせせらぎを聴きつ此の壇上に立ちて出陣の決意を述べたる若人を思うとき、万感胸に迫りて声もなし。

 昭和13年、日中戦争の最中、若き青年達の奉仕と石工、志津重郎氏の手により、熊切村の支援を得て此の壇は造立されたり。

 君死に給うこと勿れ、生きて再び故郷に還り給への願いを込めて此の壇は歓送迎台と名付けられたり。

 悲しいかな、故郷の想いを抱きつつ異国の地に散華した熊切の若き出征兵士の数は203名にも及ぶ。痛恨の極みなり。

 現代の繁栄と平和の礎は国を愛し、故郷を愛し、そして、こよなく家族を愛して戦場に散った若人の尊い命に依るものなり。

 時は流れ、熊切の村が春野の町となり、浜松市となる。今は朽ちて崩れし歓送迎台なれど、故郷を愛し戦場に赴いた出征兵士達の足跡の残る尊い壇であることを終戦60年の節目に当たりここに賦す。

 閑かにして静かなる故郷の平和が永遠に続きますように、祈りを込めて此の碑を建つ。

             平成17年8月15日  終戦記念日


 春野町熊切の集落に近づいた辺りの山際に、この「歓送迎台」は残され、「閑静の賦」の碑が建っています。

 北遠を訪ね、北遠を歩く時、「田舎は良いよね」「昔は良かった」などと、軽々しいノスタルジーだけで山里の風景を眺めていてはいませんか?

 「閑静の賦」の碑文を読み返してみてください。先の大戦が、どれほど悲惨で許し難い苦痛を人々の心の傷として残したかについて、私たちが語らなくて一体誰が語るのですか!

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:20Comments(0)出かけよう!北遠へ歴史・産業遺産・寺社・文化財

2020年02月29日

暖かな竜洋海岸を歩く⑧―海の東海道・掛塚湊

「掛塚湊KAKETUKA」の碑 竜洋海洋公園には「掛塚湊KAKETUKA」の碑が建てられています。碑には「海の東海道」の文字も見られ、解説看板にも「海の東海道 掛塚湊」と書かれています。

 掛塚湊は、明治時代のはじめまで、天竜川の河口を利用した天然の湊であり、天竜川流域の村々や、遠州の物資の集散地・交易の場として発展してきました。

停泊する漁船 徳川幕府によって街道が整備された時から「東街道」ではなく「東海道」。これは、もちろん山間地を通る中山道に対し、海沿いの道だから東海道だったのですが、江戸と関西との中間地点であった掛塚は、物流の中継地であり、天候不順の際の避難湊でもあったのです。

 そんな歴史を持つのが掛塚湊。今では回漕船の姿はなく、停泊しているのは小さめの漁船だけでした。

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Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:12Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財ウォーキング・ぶらり旅・町歩き

2020年02月28日

秋葉山旧参道を歩く①―赤い雲名橋を渡り、東雲名の常夜燈

大きな常夜燈が目印の雲名橋 いつもは、春野町領家から表参道を歩いて登っている秋葉山ですが、6年前(2014)の2月、ちょっと気分を変えて天竜スーパー林道を起点にする東雲名からの参道を歩いてみました。

 昭和63年(1988)建立の大きな常夜燈を眺め、いつもの赤い九里橋ではなく、天竜川を跨ぐ赤い雲名橋を渡ると、「秋葉神社參道」の石柱が立っています。秋葉山から流れ出る沢沿いの道を歩くと、笠の上に遠山家の家紋「丸に二つ引」が刻まれた常夜燈が立っています。

「秋葉神社參道」の石柱
東雲名の常夜燈

 雲名道とも呼ばれる秋葉山参道は、人家が途切れた先からスーパー林道から分かれて山道に入るようです。この道がどんな道かも知らぬまま、歩き始めてはみたのですが・・・。

  

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2020年02月28日

早春の小國神社境内地を歩く③―ヒキガエルの卵塊

ヒキガエルの卵塊 酸化被膜が見られた水溜まりの近くにヒキガエルの卵がありました。冬の間はどこかで冬眠していたヒキガエルが、もう目覚めたみたい。しかも、1ヶ所ではなくて2ヶ所です。これって、ちょっと早過ぎませんか?

ヒキガエルの卵塊 カエルの産卵時期は種類によって異なりますが、ヒキガエルの産卵は早い方。しかも、この冬の暖かさでは、目覚めも早かったのでしょう。それどころか、よく眠られなかったかも?

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:37Comments(0)昆虫・蝶の図鑑・野生鳥獣ウォーキング・ぶらり旅・町歩き

2020年02月28日

春野に残された戦争の記憶③―「御降誕記念」碑と「出兵橋」

「記念 皇太子殿下御降誕」碑 前回、昭和8年(1933)8月に長久橋が竣工したことを書きました。そして、写真は、春野町川上で見かけた「幟立て石」。「記念 皇太子殿下御降誕」と刻まれていました。ここで言う「皇太子殿下」とは言わずと知れた平成の天皇陛下。建立は「昭和8年12月」。長久橋竣工と同じ年に、上皇は生まれていたのです。

 「降誕=こうたん・ごうたん」とは、一般的にはほとんど使われませんが、聖人や皇族などの出生を意味する言葉で、もちろん「誕生」と同じ意味です。

 さて、この記念碑についてですが、寄進者の銘が刻まれています。「熊切村 軍人会第(略字)八組 青年川上分団」。ともに、軍国主義の匂いを強く感じさせる名前です。

出兵橋 実は、この記念碑のもう少し上流。杉川沿いに遡った辺りに架けられた吊り橋には、「出兵橋」の名札が付けられていました。紛れもなく、あの時代の命名。昭和43年12月竣工とありましたが、架け替えされたものと思われます。

 川上とは、その名の通り、杉川の上流。こんな山里の奥の奥にまで、軍靴の響きが聴こえた時代の名残りです。

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:35Comments(0)出かけよう!北遠へ歴史・産業遺産・寺社・文化財

2020年02月28日

暖かな竜洋海岸を歩く⑦―掛塚灯台

掛塚灯台 明治時代に建てられた灯台が現在も残っているのは、60基とか。天竜川の河口は、かつての掛塚湊だったため「掛塚灯台」と呼ばれていますが、実際には掛塚と言うよりも、磐田市駒場。

 「静岡県のすごい産業遺産」によれば・・・

天竜川河口の航海を見守る灯台

 天竜川河口付近は、川の土砂で沖合いまで浅瀬が続き、さらに遠州灘は波が荒く、掛塚港への出入りや、沖を運行する船には難所となっていました。

 明治13年(1880年)、当地駒場に移住して来た旧幕臣の荒井信敬(あらい しんけい)は、私財を投じて高さ約8メートルの木造高灯籠形の『改心灯台』を完成させました。その後、官営の灯台設置の話が進められ、明治30年(1897年)に完成したのが現在の掛塚(かけつか)灯台です。

 駒場の砂浜に建設された掛塚灯台は、円筒形で、中央の帯までを鉄筋コンクリート造の基礎として、その上に鉄骨造の灯塔を載せています。風が強く波が荒い遠州灘に合わせて出入口は5.11メートルの高さに設けられ、鉄製の梯子を使って登り降りします。

 なお灯台は、100年余り浜辺に建ち続けていましたが、老朽化が進み、海岸侵食や東海地震の危機に備えるため、平成14年(2002年)現在地へ移築されました。

 なお、内部は非公開となっており、見学することはできません。


 平成14年(2002)に砂地の建設地から現在地へと移設されましたが、140年を経てもなお現役で夜の海を照らし続けています。

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2020年02月27日

浦川歌舞伎、小学校で継承 学習発表会で毎年上演へ 浜松

子どもたちが浦川歌舞伎を披露する昨年の学習発表会の様子 浜松市天竜区佐久間町の市立浦川小は、昨年9月の定期公演をもって休演した地域伝統の「浦川歌舞伎」について、毎年の学習発表会で児童による上演の機会を設け、継承に協力することを決めた。5年生の児童が恩田好雄校長に伝統を守る意志を伝えたことで実現した。同町でこのほど開かれた学校運営協議会で、地域住民らの賛同を得た。

 浦川歌舞伎は1858年に浦川での公演中に病死した江戸の名歌舞伎役者・尾上栄三郎をしのぶ地歌舞伎。保存会が年に一度の公演を続けていたが、担い手不足や資金難などを理由に休演を決めた。

 国語の授業で、よりよい暮らしを目指す提案書作りに取り組んでいた桃井思祈さん(11)と佐藤佳さん(10)は、浦川歌舞伎をテーマに選択。児童による人気演目「白浪五人男」などを学習発表会で披露する▽保存会員に指導を仰ぎ、放課後や昼休みに練習する▽衣装や小道具が足りなければ自分たちで用意する-ことなどを記し、恩田校長に提案した。

 定期公演にも出演した桃井さんは「せりふは難しいけど歌舞伎は楽しい。他の学校では体験できない」と魅力を語り、佐藤さんも「伝統がなくなると寂しくなる」と訴えた。

 同校では昨年11月の学習発表会で浦川歌舞伎を上演し、大きな反響を得た。恩田校長は「継続には地域の協力も必要だが、子どもたちの強い思いがある。なんとか小さな火をともし続けられたら」と話す。指導を快諾した同保存会の大沢重夫会長も「子どもの思いが温かく、ありがたい」と笑顔を見せる。(「静岡新聞」より)


 休止が決まった「浦川歌舞伎」ですが、子供たちが継承の意思を示してくれたことで、いつかまた公演が復活する可能性が出て来ました。すばらしいニュースです!

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