› 自然と歴史の中を歩く! › 2018年02月
2018年02月28日
春の野道を歩く①―ヒメオドリコソウ
明日からはいよいよ3月。いよいよ春です。ポカポカ陽気の中、ご近所を散歩したら、春の訪れを告げる花がたくさん咲いていました。
シソ科オドリコソウ属のヒメオドリコソウは、ヨーロッパ原産の帰化植物。最近、急激に生育区域を広めています。
ヒメオドリコソウの葉は、日が当たることにより紫色に変わる性質があり、逆に日当たりが悪い場所に育つものの葉は緑色のまま。葉の陰に隠れるように咲く花。近づいてみるとなかなか面白い形をしていますね?
シソ科オドリコソウ属のヒメオドリコソウは、ヨーロッパ原産の帰化植物。最近、急激に生育区域を広めています。
ヒメオドリコソウの葉は、日が当たることにより紫色に変わる性質があり、逆に日当たりが悪い場所に育つものの葉は緑色のまま。葉の陰に隠れるように咲く花。近づいてみるとなかなか面白い形をしていますね?
2018年02月28日
「西浦の田楽」前に 能衆ら酒造り 浜松
浜松市天竜区水窪町西浦地区に伝わる国指定重要無形民俗文化財「西浦の田楽」を前に、能衆らが26日夜、同地区の別当宅で「酒造り」を行った。
毎年旧暦の1月18~19日(今年は3月5~6日)にかけて、能衆が夜通し舞を繰り広げる本番に向けた準備儀式の一つ。酒造りを担う「公文衆」の役割は、火をおこしたり釜で煮たりするなど、それぞれ厳格に決められている。
別当の高木八郎さん(43)宅に集まった能衆ら約10人は、地域住民から集めた米3升で酒造りに取り組んだ。米をじっくりと火にかけた後、木おけに移し、こうじを混ぜて発酵させた。米の粘り気などを細かく確認し、酒造りを仕切った公文衆の森口哲夫さん(73)は「先祖代々伝わる大行事。いつも通り自然体に、初心を忘れず臨んでいる」と話した。
酒は旧暦の1月16日(今年は3月3日)に口開けされる。能衆は酒造りの日から肉や魚を断つなど、精進生活に入る。
西浦田楽は、雰囲気を守るために今年からフラッシュやストロボを使った写真撮影が禁止となった。市は、水窪協働センター前から会場近くの旧西浦小に向かう無料送迎バスを運行する。問い合わせは水窪文化会館<電053(982)0013>へ。(「静岡新聞」より)
今年の「西浦の田楽」は、「桃の節句」も過ぎた3月5日~6日。行って見てみたい思いです。「フラッシュやストロボを使った写真撮影禁止」は大賛成。カメラを構えたマニアが最前列に陣取っているのは、伝統芸能に不似合な光景だと感じていました。
毎年旧暦の1月18~19日(今年は3月5~6日)にかけて、能衆が夜通し舞を繰り広げる本番に向けた準備儀式の一つ。酒造りを担う「公文衆」の役割は、火をおこしたり釜で煮たりするなど、それぞれ厳格に決められている。
別当の高木八郎さん(43)宅に集まった能衆ら約10人は、地域住民から集めた米3升で酒造りに取り組んだ。米をじっくりと火にかけた後、木おけに移し、こうじを混ぜて発酵させた。米の粘り気などを細かく確認し、酒造りを仕切った公文衆の森口哲夫さん(73)は「先祖代々伝わる大行事。いつも通り自然体に、初心を忘れず臨んでいる」と話した。
酒は旧暦の1月16日(今年は3月3日)に口開けされる。能衆は酒造りの日から肉や魚を断つなど、精進生活に入る。
西浦田楽は、雰囲気を守るために今年からフラッシュやストロボを使った写真撮影が禁止となった。市は、水窪協働センター前から会場近くの旧西浦小に向かう無料送迎バスを運行する。問い合わせは水窪文化会館<電053(982)0013>へ。(「静岡新聞」より)
今年の「西浦の田楽」は、「桃の節句」も過ぎた3月5日~6日。行って見てみたい思いです。「フラッシュやストロボを使った写真撮影禁止」は大賛成。カメラを構えたマニアが最前列に陣取っているのは、伝統芸能に不似合な光景だと感じていました。
2018年02月28日
佐久間から届いた「春の便り」
佐久間カン子さんから「春の便り」が届きました。「節分草に続き春の舞台にレギュラー出演者がまた一人現れました!(^-^)」(from 佐久間カン子)。
佐久間に春の訪れを知らせるセツブンソウは、もう、こんなにたくさん咲いているようです。そして、新たに出番を迎えたのはツクシ。
気がつけば、明日からは3月。卒業式、入学式の季節は、もうすぐそこまで来ています。
佐久間に春の訪れを知らせるセツブンソウは、もう、こんなにたくさん咲いているようです。そして、新たに出番を迎えたのはツクシ。
気がつけば、明日からは3月。卒業式、入学式の季節は、もうすぐそこまで来ています。
2018年02月28日
子授け、安産祈願の「勝坂神楽」③―清水神社と「神の水」
勝坂神楽とは、浜松市天竜区春野町勝坂の清水(きよみず)神社と八幡神社の祭典。清水神社へと登る石段の脇に石が組まれ、差し込まれた竹筒から水が湧き出ています。
今から約四百二十年前、天正四年(一五七六年)、徳川家康は、犬居城主天野宮右衛門と戦いをいどみ、城は落ち、家康公は信州に向って此の地を通過したといわれる。その折、山中にて藤(蔦)をとっている女がいた。女は名を問はるゝので、お勝と答えれば、家康は、吉左右(めでたい)、吉左右と喜ばれて里への案内を命ぜられた。家里に案内された家康は、暑中のことにて咽喉が乾き水を求められた。お勝は、井戸より清水を汲み呈した。大層良き水と賞し、井戸を見たいとの仰せにて案内したれば、暫く井戸を見居られて次の歌を詠まれた。
よろこびし
よもやつきなん清水の
神のちかいに 七五三縄(しめなわ)の内
以来村人たちは、神の水と称し、命の水として毎日の暮しに欠くことのできない水として使はれてきた。今もこの神の水は、絶えることなく、私共の咽喉をうるおしている。(古文書より)
これが、清水神社の元となった「神の水」。軟らかくて美味しい湧水の後ろに、解説の看板が立っています。
勝坂神楽の若衆たちは、家康公ゆかりの「神の水」の脇の石段を登り、清水神社境内で「ほろ舞」「ぬさ舞」を奉納。石段を下り八幡神社へと向かいました。
今から約四百二十年前、天正四年(一五七六年)、徳川家康は、犬居城主天野宮右衛門と戦いをいどみ、城は落ち、家康公は信州に向って此の地を通過したといわれる。その折、山中にて藤(蔦)をとっている女がいた。女は名を問はるゝので、お勝と答えれば、家康は、吉左右(めでたい)、吉左右と喜ばれて里への案内を命ぜられた。家里に案内された家康は、暑中のことにて咽喉が乾き水を求められた。お勝は、井戸より清水を汲み呈した。大層良き水と賞し、井戸を見たいとの仰せにて案内したれば、暫く井戸を見居られて次の歌を詠まれた。
よろこびし
よもやつきなん清水の
神のちかいに 七五三縄(しめなわ)の内
以来村人たちは、神の水と称し、命の水として毎日の暮しに欠くことのできない水として使はれてきた。今もこの神の水は、絶えることなく、私共の咽喉をうるおしている。(古文書より)
これが、清水神社の元となった「神の水」。軟らかくて美味しい湧水の後ろに、解説の看板が立っています。
勝坂神楽の若衆たちは、家康公ゆかりの「神の水」の脇の石段を登り、清水神社境内で「ほろ舞」「ぬさ舞」を奉納。石段を下り八幡神社へと向かいました。
2018年02月28日
春の気配の秋葉山④―高度を増した陽射し
春の気配は、足元を照らす陽射しからも感じ取ることができます。
気温はまだまだ低く「春は名のみ」と感じられますが、「立春」を過ぎて日の出時間が早まっただけでなく、太陽高度も高まり、二の鳥居跡付近の明るさは冬の間とはまったく違っています。
基本的には出発時間は1年を通して午前9時。二の鳥居跡の参道は南北方向に延びていることもあるのですが、私たちが歩く道はこの明るさ。
その先にある「子安地蔵尊」も、明るい笑顔を見せていました。
気温はまだまだ低く「春は名のみ」と感じられますが、「立春」を過ぎて日の出時間が早まっただけでなく、太陽高度も高まり、二の鳥居跡付近の明るさは冬の間とはまったく違っています。
基本的には出発時間は1年を通して午前9時。二の鳥居跡の参道は南北方向に延びていることもあるのですが、私たちが歩く道はこの明るさ。
その先にある「子安地蔵尊」も、明るい笑顔を見せていました。
2018年02月28日
天浜線の登録有形文化財⑤―天竜二俣駅上り上屋及びプラットホーム&下り上屋及びプラットホーム
天竜浜名湖鉄道「天竜二俣駅」のプラットホームを駅の南側から撮ってみました。
「天竜二俣駅上り上屋及びプラットホーム」と「天竜二俣駅下り上屋及びプラットホーム」は国の登録有形文化財第22-0163号と22-0164号。
プラットホームが建設されたのは昭和15年(1940)。上屋の柱には、古いもので明治44年(1911)のレールが再利用されているとのこと。昭和初期のレトロな雰囲気の中にも、リサイクルの考え方が生かされています。
「天竜二俣駅上り上屋及びプラットホーム」と「天竜二俣駅下り上屋及びプラットホーム」は国の登録有形文化財第22-0163号と22-0164号。
プラットホームが建設されたのは昭和15年(1940)。上屋の柱には、古いもので明治44年(1911)のレールが再利用されているとのこと。昭和初期のレトロな雰囲気の中にも、リサイクルの考え方が生かされています。
2018年02月28日
参道の途中を飯田線が通る上市場の熊野神社⑥―素朴な石像と丸石
熊野神社本殿脇にある摂社には、誰が祀られているのかは分かりませんが、その横に並んでいるのは石像は神道の神ではなく、仏のようです。
いずれも、素朴な彫りで小さな石像。この熊野神社がかつては本地垂迹の神を祀る「熊野権現社」であった歴史を考えれば、神社の境内に石仏があるのも不思議なことではないのかも知れません。
しかし、そのうちのいくつかは、役行者に見えなくもありません。もう1つ気になるのは、石仏の間に祀られている2つの丸い石。
「熊野権現社」と言えば、熊野修験が思い浮かびます。考えを巡らせば、これらの石像を納めたのは熊野の修験者たちであり、また、この真ん丸い石も、彼らに由来するものかも・・・?
これらは、東三河と接する上市場に、「川合花の舞」を伝えたという熊野修験者たちの来訪流入の足跡なのかも知れません。
いずれも、素朴な彫りで小さな石像。この熊野神社がかつては本地垂迹の神を祀る「熊野権現社」であった歴史を考えれば、神社の境内に石仏があるのも不思議なことではないのかも知れません。
しかし、そのうちのいくつかは、役行者に見えなくもありません。もう1つ気になるのは、石仏の間に祀られている2つの丸い石。
「熊野権現社」と言えば、熊野修験が思い浮かびます。考えを巡らせば、これらの石像を納めたのは熊野の修験者たちであり、また、この真ん丸い石も、彼らに由来するものかも・・・?
これらは、東三河と接する上市場に、「川合花の舞」を伝えたという熊野修験者たちの来訪流入の足跡なのかも知れません。
2018年02月28日
横川から光明山に登る①―道の駅「いっぷく処横川」から二丁目、三丁目
道の駅「いっぷく処横川」側から光明山へと登ったのは、平成25年(2013)2月。光明山への登口には看板が立っています。この時は初めての光明山登りでしたが、分かりやすい表示ですので迷わずに登山道に入りました。
しかし、「是ヨリ頂上マデ40分」の赤い文字の「40分」が二本線で「1時間20分位」と訂正してあるのがちょっと気になりました。
初めて現れた町石は「第二丁目」。起点はここから2丁(約218メートル)手前のはずですが、残念ながら1丁目の町石も見当たりません。
何の下調査もせずに登り始めましたので、光明寺跡まで何町あるのか分かりませんでしたが、きっと「40分」と「1時間20分」の間くらいでしょう。
次に現われたのは「第三丁目」の町石。石柱の向かって右側には「参詣安全」と彫られ、「安政四丁巳年」(1857)の造立になるものです。
しかし、「是ヨリ頂上マデ40分」の赤い文字の「40分」が二本線で「1時間20分位」と訂正してあるのがちょっと気になりました。
第二丁目の町石 |
初めて現れた町石は「第二丁目」。起点はここから2丁(約218メートル)手前のはずですが、残念ながら1丁目の町石も見当たりません。
何の下調査もせずに登り始めましたので、光明寺跡まで何町あるのか分かりませんでしたが、きっと「40分」と「1時間20分」の間くらいでしょう。
次に現われたのは「第三丁目」の町石。石柱の向かって右側には「参詣安全」と彫られ、「安政四丁巳年」(1857)の造立になるものです。
2018年02月27日
子授け、安産祈願の「勝坂神楽」②―「ほろ舞」「ぬさ舞」
勝坂神楽の「ほろ舞」「ぬさ舞」って何?この際、少しだけ勉強してみましょう。
「ほろ舞」の「ほろ=幌(母衣)」とは、獅子の胴を表す「布」のこと。二人立の場合には、前足と頭を操る役と、後足役を隠す「布」。勝坂の場合には一人立ですが、1頭はおかめ面、もう1頭は笠を被った者が「ほろ」の後ろを持ち、獅子の胴に見立てて舞います。
「ぬさ舞」の「ぬさ=幣」とは、獅子が持つ「御幣」のこと。「ぬさ舞」の時には、「ほろ」を体に巻き、「ぬさ」と七五三の順に鈴が付く「神楽鈴」を手に舞います。
開催日については「10月29日前後の日曜日」されていましたが、「一度29日の後にやったら雨が降ったから」との理由で、今では必ず「29日前」に開催しているそうです。
「ほろ舞」の「ほろ=幌(母衣)」とは、獅子の胴を表す「布」のこと。二人立の場合には、前足と頭を操る役と、後足役を隠す「布」。勝坂の場合には一人立ですが、1頭はおかめ面、もう1頭は笠を被った者が「ほろ」の後ろを持ち、獅子の胴に見立てて舞います。
「ぬさ舞」の「ぬさ=幣」とは、獅子が持つ「御幣」のこと。「ぬさ舞」の時には、「ほろ」を体に巻き、「ぬさ」と七五三の順に鈴が付く「神楽鈴」を手に舞います。
開催日については「10月29日前後の日曜日」されていましたが、「一度29日の後にやったら雨が降ったから」との理由で、今では必ず「29日前」に開催しているそうです。
2018年02月27日
春の気配の秋葉山③―赤石と赤土
秋葉山の地質のほとんどは「Ksc 砂岩、粘板岩およびチャート」。一部に赤石が混じる「Kg 輝緑凝灰岩およびチャート」辺りが「小豆坂」と呼ばれる箇所。踏み固められた参道には大小の赤石が見られ、その赤いストーンを小豆に見立てた呼び名です。♪そだねー!
尾根道付近の路肩には、三方原台地と同じ赤土が顔を出しています。三方原台地の土は、土壌に酸化鉄が含まれているため錆びた鉄のような赤色。
冬の朝、霜柱によって持ち上げられた赤土がサラサラの粉になり、崩れて参道にはみ出しています。春野ではこんな赤土を持ち帰り、ふるいにかけて小石を除き、田の土壌改善のための客土として利用するとのこと。もちろん、それは秋葉山表参道の赤土ではありません。
尾根道付近の路肩には、三方原台地と同じ赤土が顔を出しています。三方原台地の土は、土壌に酸化鉄が含まれているため錆びた鉄のような赤色。
冬の朝、霜柱によって持ち上げられた赤土がサラサラの粉になり、崩れて参道にはみ出しています。春野ではこんな赤土を持ち帰り、ふるいにかけて小石を除き、田の土壌改善のための客土として利用するとのこと。もちろん、それは秋葉山表参道の赤土ではありません。