› 自然と歴史の中を歩く! › 2018年03月

  

2018年03月31日

満開のイスノキの花―旧廻船問屋津倉家の庭

イスノキの花 掛塚の旧廻船問屋津倉家のイスノキの花が満開です。

 イスノキと言っても知らない人が多いと思いますが、マンサク科イスノキ属の常緑樹で、葉に出来た虫こぶの穴に息を吹き込むと♪ヒョ~と笛のような音がするため「ヒョンノキ」などとも呼ばれ、森町の小國神社では「ひょうの木=縁結びの御神木」とされています。

 雄蕊の葯が赤っぽく色づいていますが、花弁はありません。

 花の季節は短いので、見るなら今!塀の外からでも見られますので、見上げてみてください!

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 16:52Comments(0)みんなと俱楽部 ⚓ 掛塚花見情報

2018年03月31日

今年も咲いたオカオグルマの花

オカオグルマ キク科キオン属のオカオグルマ(丘小車)とは、ロゼット状の根生葉から花茎を伸ばし、数個の頭花を車輪状(小車)に付けるところからの命名。

 私の持っている図鑑には載っていませんし、20の都府県で「絶滅危惧種」に指定されていますので、どこにでも育っているわけではなさそうです。

 タンポポみたいに鮮やかな黄色い花が、今年(2018)も咲き始めました。

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 06:04Comments(0)出かけよう!北遠へ野の花・植物

2018年03月31日

松島十湖句碑を追って②―細江神社「三日見ぬ 細江のへりの 青田哉」

「三日見ぬ 細江のへりの 青田哉」の句碑 二宮尊徳の報徳思想を受け継いだ俳人。明治7年(874)十湖は中善地村に「三方報徳社」を組織し報徳の教えを広め、明治9年(1876)には浜松県公選民会の議員に選出され、同年、静岡県に合併されると県会議員となり、同13年(1880)からは県庁に勤め、さらに翌14年(1881)引佐麁玉郡長として気賀に赴任しています。

 私の生まれ故郷である浜松市北区細江町の細江神社境内にある句碑「三日見ぬ 細江のへりの 青田哉」の句が詠まれたのは、この頃のことでしょうか?


  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 06:00Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財

2018年03月31日

磐田市二之宮の鹿苑神社②―神社の由緒

鹿苑神社の由緒書き 磐田市二之宮の鹿苑(ろくえん)神社の由緒を知らせる看板によれば・・・

 鹿苑(ろくおん)神社

 祭神 大名牟遅命(おおなむちのみこと)(大国主命おおくにぬしのみこと)
 由緒 人皇十七代履中天皇四年(五世紀初)
    杉村神戸島(現在周智郡春野町杉)に奉祀され以後五百年間ここに鎮座せられた。同処では歳々正月乾鹿壱石を作り貢として奉納するを例とした。ために鹿を駆って苑内にいれた。(鹿苑の称)
    当時国に一之宮、二之宮あり当社は二之宮にあかり国司巡拝の順序を意味した。
    神戸島は当地より十五里も隔てる山間に地なる故、人皇五十七代陽成天皇元慶三年西紀八八一年現在の地に遷座せられ、是により二之宮を此の地の地名とせられた。
    遠江風土記伝にいう「当社に於保の郷十三ヶ村の惣社旧朱印二十三石を有し往時は一之宮小国神社と併称せられ社殿宏大、社領三百石を有せり」と、戦国時代兵火にかかり全焼宝物、書類等を失う。
    磐田郡十四社式内社の一社
    社格は郷社であった。  昭和四十七年


 ・・・とあります。

鹿苑神社 これが、私が春野町杉へ小國神社を訪ねたきっかけとなった看板。「神戸島」は「門島」へと表記を変えましたが、二之宮の神社に「鹿苑」の名を譲った杉の神社は、現在も小國神社として以前からの鎮座地に祀られています。

 仏教伝来以降、日本人の獣肉食は敬遠されるようになりました。「鹿苑」の役割が終えられたのは、その時期と一致するのかも知れません。


  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:58Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財

2018年03月31日

「新緑の佐久間ダム探訪」下見ウォーク㉔―在来線のドクターイエロー

在来線のドクターイエロー 「新緑の佐久間ダム探訪」下見ウォークを終えて「中部天竜」駅に戻り、阪急交通社の伊藤さんを交えてツアー企画の打ち合わせをしていた時のことです。突然、やって来た黄色い列車。在来線を走るドクターイエローです。

 「新幹線電気軌道総合試験車」ドクターイエローは有名ですが、意外と知られていないのが在来線の「総合検測車」。線路のゆがみ具合や架線の状態、信号電流の状況などを検測しながら、飯田線を走行するのは月1回とのことですから、ここで出会ったのはラッキー!

 今年(2018)5月、11回開催される「第2回/新緑の佐久間ダム探訪」ツアー参加者のみなさんには楽しんでいただけるガイドをさせていただきます。ぜひ、ご参加ください!

 【関連記事】「新緑の佐久間ダム探訪」下見ウォーク①―飯田線「中部天竜駅」
  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:48Comments(0)出かけよう!北遠へウォーキング・ぶらり旅・町歩き

2018年03月31日

佐久間ダムまつり「竜神春の舞」⑦―ダムを見上げる

佐久間ダムの雄姿 エレベーターで「B7」まで下りた私たちは、狭いトンネルと抜けて外に出ましたが、そこからさらに手すりの付いた階段を下りました。

 そして、振り返ると、そこには佐久間ダムの雄姿が!

 佐久間ダムは巨大なコンクリートの塊。上流側はほぼ垂直ですが、下流側は傾斜し、天竜川の流れをその重みで堰き止めています。このような重力式ダムには、膨大なコンクリートと堅固な岩盤が必要。

 佐久間ダム建設時には、固い岩盤を出すため左右の山の表土と脆い岩を削る工事が行われたのです。

 滅多に経験できないダムの仰瞰(ぎょうかん)。ダムの大きさを体感できるダム堰堤内探検でした。

 【関連記事】佐久間ダムまつり「竜神春の舞」①―竜神の渡御と舞
  

2018年03月31日

「昭和の町」二俣を歩く⑧―琺瑯看板

ヤマカノウ味噌虫さゝれ かゆみ止 ムヒ レトロな町並みには、レトロな琺瑯看板が似合います。

 縦長の「ヤマカノウ味噌」は「∧(山)+叶」が商標。現在ではこの商品名を見つけることができませんが、看板の下には「浜松市 斉藤味噌工場」とあります。浜松のどこかにあった味噌製造会社に違いありません。

虫さゝれ かゆみ止 ムヒ その隣りには「虫さゝれ かゆみ止 ムヒ」。越中の売薬で知られた富山県の株式会社池田模範堂のかゆみ止め用外用剤。商品名「ムヒ」の由来をご存じですか?

 そうです。「ムヒ」とは「無比」のこと。現在では「MUHI」とローマ字表記になっていますが、「やっぱムヒだわ」。

 北鹿島でも池田模範党の「ムヒ」(左の写真)の看板が、「虫さゝれ かゆみ止」の公約を掲げ、清き一票を訴えていました。

 【関連記事】「昭和の町」二俣を歩く①―ヤマタケの蔵
  

2018年03月30日

秋葉山表参道の案内マップ完成!

秋葉山表参道の案内マップ 待望の秋葉山表参道の案内マップが完成しました。

 ここ数年、表参道を歩いて登る人が劇的に増えています。しかも、初めて登るという人たちも多く、「あとどのくらいで着きますか?」とか、「今はどの辺ですか?」などの問い合わせを受けることが多く、私たちAKG(秋葉観光ガイド)としては、どうしてもA4サイズの地図が必要だと考え、天竜区観光協会春野支部に製作を依頼。

秋葉山表参道の案内マップ 原稿は私が作りましたので、原稿のコピーでは配布していましたので、すでに手元にある人もいらっしゃるかも知れません。

 配布は無料。先ずは、天竜区観光協会と秋葉神社上社、「秋葉茶屋」に置くつもりで、上社と茶屋には4月1日(日)に表参道を歩いて登って届けます。案内マップを気軽に手に取り、もっと多くの人に秋葉山へ登っていただきたいと思っています。

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 07:11Comments(0)秋葉山・AKG(秋葉観光ガイド)

2018年03月30日

アブラナ科のマルバコンロンソウ

マルバコンロンソウ 佐久間で見かけたこの花は、アブラナ科タネツケバナ属 のマルバコンロンソウ。コンロンソウの名と「崑崙草」と書き、「崑崙(コンロン)」とは仙人が住むという中国の崑崙山脈に由来すると言うのですが、詳細は不明。

 そのコンロンソウの仲間で葉の形に丸みを帯びているからマルバコンロンソウ。花弁はアブラナ科ですから4枚。葉にも茎にも細かい毛が生えています。
  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 06:12Comments(0)野の花・植物

2018年03月30日

松島十湖句碑を追って①―源長院「浜松は 出世城なり 初松魚」

源長院 当ブログでも何度か紹介して来た松島十湖(じっこ)は、豊田郡中善地村(現在の東区豊西町)に生まれ、「今芭蕉」とも呼ばれた俳人。そんな十湖の句碑を訪ねるため、先ず立ち寄ったのは、十湖の菩提寺である浜松市東区豊町の源長院です。

 源長院には、十湖とその門人たちなどの句碑が40基並び、有名なのはやはり「浜松は 出世城なり 初松魚(はつがつお)」の句。浜松八幡宮にある同じ句を刻んだ碑では、浜松は「はま松」とされていましたが、源長院では「浜松」です。

「浜松は 出世城なり 初松魚」の句碑 句碑には「七十三童十湖」と刻まれていますので、嘉永2年(1849)年3月17日生まれの十湖が数えで73歳の時は大正10年(1921)の建立と考えられます。

 松島十湖の有名な句「浜松は 出世城なり 初松魚(はつがつお)」を刻んだ石碑の周りには、十湖の門人たちの句碑が並び、その中に十湖の句、「竹の子や 親も養ふ ほどの露」「世の中に ほうきあてばや すゝはらい」「在し世の 事思ふて 魂祭り」を刻んだものもあります。


  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 06:06Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財