2018年11月03日
舞坂宿「往還通り」を歩く⑥―北雁木
舞坂宿の西の端は、北雁木(きたがんげ)と呼ばれた渡船場の跡。「浜松市教育委員会」の解説看板によれば・・・
雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。
舞坂宿にいは三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをあした渡船場、真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。
この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約十八メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。
・・・とされています。
北雁木に掲出されていたのは、歌川広重が描いた保永堂版「東海道五十三次 舞坂 今切真景」。今切口には小舟が浮かび、帆掛け船の姿も描かれています。
雁木とは階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔からいっています。
舞坂宿にいは三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをあした渡船場、真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれています。
この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約十八メートル)の石畳が水際まで敷きつめられています。
・・・とされています。
北雁木に掲出されていたのは、歌川広重が描いた保永堂版「東海道五十三次 舞坂 今切真景」。今切口には小舟が浮かび、帆掛け船の姿も描かれています。
明応8年(1498)8月25日に発生した明応地震の津波により、浜名湖開口部が沈下して決壊したのが今切口。手前に描かれている杭は、逆波から渡し舟を守るために幕府の命で打たれた防波杭ですが、波が荒い日には、足止めを食う旅人もいたことと思われます。