2020年02月26日
春野に残された戦争の記憶①―八幡神社

鎌倉に幕府を開いた源頼朝が鶴岡八幡宮を建立した後、御家人たちも、領内の守護神として八幡神社を勧請し、八幡大菩薩は「武神」として多くの武将、武家の崇敬を集めました。その祭神や歴史については諸説ありますが、その数は、全国で1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次ぐ多さだとか。
静岡県神社庁のデータによれば、春野町内でも、豊岡(植田)、豊岡(勝坂)、田河内、川上、宮川、石切に祀られていること。「武神」などとは縁遠いと思われる山里で、どうしてこれほどまでに、八幡神社が勧請されたのでしょうか?
「五穀豊穣」や「子孫繁栄」の獅子舞として有名な勝坂神楽も八幡神社の祭礼とされています。ところが、勝坂神楽を解説する資料の中に、「武運長久」の文字を見つけました。もしかしたら、山里の集落で、八幡神社が大切に祀られてきた裏には、「武神」から連想される「武運長久」の強い願いがあったのではないでしょうか?
八幡大菩薩の仏教的な神号は、神仏分離・廃仏毀釈の流れの中、明治政府によって使用を禁止されました。しかし、八幡大菩薩への信仰は根強く残り、終戦の色濃い太平洋戦争末期の陸海軍の航空基地には、「南無八幡大菩薩」の大幟が翻っていたとのことです。「武運長久」=軍人としての手柄を立て、無事に帰って来てほしい。春野の熊切川と気田川の合流近くに架かる長久橋・新長久橋の名前の由来も、出征兵士の無事な帰郷の願いからではなかったのかと思います。
写真は、豊岡(植田)の八幡神社。約200年前に編纂されたとされる『掛川誌稿』によれば、村内には、「八幡」の他にも、「権現」「十五所権現」「近津権現」「遠津権現」「若宮」の各神社があったと書かれています。若宮神社もまた八幡神社と同系とされ、他は「権現」を祀っていましたので、取り壊しにあったのではないでしょうか?八幡神社がいまだに多くの崇敬を集めている裏には、人々の心に残る悲惨な戦争の記憶が影を潜めているような気がしてなりません。