2019年03月01日
磐田に残る家康の足跡⑦―一言坂の戦い
それにしても、徳川家康について語られる逸話って、逃げたり、隠れたりばかり。元亀3年(1572)10月の一言坂(ひとことざか)の戦いも、家康の退却戦でした。
上洛を目指していた武田信玄の軍勢は4万人。迎え撃つ家康軍はわずか8,000人余。本多忠勝らを偵察に先行させて天竜川を渡ったのですが、一言坂の上を二俣城に向けて進軍しようとする武田軍と、戦う意図もないままに出会ってしまいました。
上洛を目指していた武田信玄の軍勢は4万人。迎え撃つ家康軍はわずか8,000人余。本多忠勝らを偵察に先行させて天竜川を渡ったのですが、一言坂の上を二俣城に向けて進軍しようとする武田軍と、戦う意図もないままに出会ってしまいました。
『遠州浜松軍記』によれば「勢都合四万余騎出陣あいなりし、遠州多々羅飯田の両城を切り落とし、犬居天野宮の太郎左衛門に遠州の定番を堅く云い附け、久野の城後見して見附の臺籏を建て、家康公御勢は三ヶ野川切りて一言坂にて戦い給ふ。家康公御軍勢八千余騎、先陣に三千余騎を相立て、後陣天龍川へ出張を構え、信玄勢四万余騎なれば中々三千余騎にて防ぐべき様なく、一言坂も打ち破られ天龍川へ引き退く。甲州勢弥勝ちに乗り・・・」と、逃げてばかりの家康です。