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2020年08月13日

我が故郷の気賀(きが)を歩く㉙―近藤家墓所

近藤家墓所 山の中腹の道を歩いて行くと「気賀近藤家墓所」の看板が建てられていました。

 井伊の谷三人衆の一人近藤康用の子秀用は、元和五年(一六一九)井伊谷藩の領主となりました。その後、寛永八年(一六三一)領地を一族五人に分け与えいわゆる五近藤家が成立しました。気賀近藤家は明治維新までの二五〇年間、十二代にわたって気賀を領地とし、気賀関所を治めていました。代々領主は、江戸下谷池ノ端の称仰院か、中川の初山宝林寺に葬られています。ここは御下屋敷とか御所平と呼ばれ、分骨した代々の領主の墓が、気賀の領地を見下ろすこの場所にまつられました。
「気賀近藤家墓所」の看板 享保十五年(一七三〇)家督を継いだ六代用随の墓石には、活民院殿と刻まれています。用随は宝永の大地震で塩水に浸かり米が作れなくなった荒田に、みずから七島藺を植え領民を救った殿様として知られているのです。墓所の入口には、七島伝来の由来を記し用随を讃える、細江町、細江町農業協同組合、静岡県藺草業組合の石碑が立てられています。

     細江町教育委員会


「畳表商拾年記念」の石碑 以前、初山宝林寺にある近藤家墓所に立ち寄ったことがありましたので、まさかここにも墓所があるとは知りませんでした。

 呉石の諏訪神社入口に「畳表商拾年記念」の石碑があり、気賀と藺草栽培との浅からぬ関係を思い出したばかりでしたが、近藤家墓所で改めて、子どもの頃に見た藺草干しの風景が思い出されました。





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