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2020年04月30日

我が故郷の「姫街道」を歩く⑩―「服部中保次様最期之地」碑

「服部中保次様最期之地」碑 中央配水池タンクの前を過ぎ、しばらく歩くと、「服部中保次様最期之地」と刻まれた石碑がありました。

 現地にあった解説看板によれば・・・

「服部小平太最期の地」の解説看板服部小平太最期の地

 服部小平太(中保次)は、永禄三年(一五六〇))五月十九日の桶狭間の戦いで、織田信長の家臣として、毛利新助らと共に、今川義元を討ち取った功労者であった。
 この地方が徳川の勢力下に入ると、小平太は信長亡き後、家康の家臣として、勲功によりこの地を治めた。もともと今川領だったこの地方には、桶狭間に出陣して戦死した者もあり、小平太に恨みを持つ者もあった。天正十五年(一五八七)六月十八日、小平太は単身このあたりを巡視の折、ここで何物かに討たれた。
 なお小平太の墓はこの下数十メートルにあり、祥栄院殿湖雲浄鑑大居士と刻まれている。
 またここより二百メートルほど北に、小平太を祀ったといわれる宗安寺の跡がある。

                     平成二年三月二十日
                     細江町教育委員会

「服部中保次様最期之地」碑 ・・・とのこと。「服部中保次様最期之地」碑の前側には確かに「天正十五年六月十八日」と刻まれているので、当時のものと思ったのですが、裏面には「昭和五十四年六月十八日建之」とも刻まれていました。

 そもそも、服部小平太と服部中保次とは別人という説があり、服部小平太が越後で自刃したのは文禄四年(1595)とされていますので、この「服部中保次様最期之地」碑は、あくまでも言い伝えによるもの。あまり史実かの如く強調し過ぎない方が良いのではないでしょうか?

 揚げ足を取るようですが、「何物か」は明らかに「何者か」の間違いだと思います。

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