› 自然と歴史の中を歩く! › 2020年11月

  

2020年11月30日

満開になった光明寺の四季桜

光明寺の四季桜 浜松市天竜区山東にある光明寺の四季桜―毎年、見に出かけているのですが、今年(2020)は初めて。明日から師走となる前日、11月30日にお花見をして来ました。

光明寺の四季桜 季節は秋から冬へと歩みを進めている時季、カエデも色づき始め、四季桜はほぼ満開。四季桜の花は長く咲きますので、まだしばらくは楽しめるはず。

 紅葉と桜の花とのコラボレーションを楽しみましょう!
  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 16:44Comments(0)出かけよう!北遠へ季節の便り花見情報

2020年11月30日

「磐田クスノキ大学」のみなさんと町歩き①―うろこ雲

うろこ雲 11月29日、聖隷クリストファー大学社会福祉学部こども教育福祉学科の鈴木光男教授をはじめとした「磐田クスノキ大学」のみなさんが掛塚の町歩きにやって来ました。参加者は6人。歴史ある掛塚の町並みに合わせ、着物を着ての参加です。

「磐田クスノキ大学」のみなさんと挨拶 暑くもなく寒くもなく、見上げる空にはうろこ雲。いや、いわし雲かな?どちらにしても、湊町で栄えた掛塚にぴったりの空?でも、掛塚港って漁港じゃなくて、商業港だったんだけどね・・・

 旧津倉家住宅に集合した後、非接触型の体温計で体温を測定し、挨拶を交わした後、歩き始めました。

  

2020年11月30日

森の鋳物師・山田七郎左衛門の仕事を訪ねて②―遍照寺の高平山大仏

遍照寺の高平山大仏 同じ森町の公式HP「22 森町の鋳物師」には、「森町飯田 高平山遍照寺」も掲載されています。早速、森町飯田の小高い山の上にある遍照寺を訪ねました。

 「高平山遍照寺の大日如来坐像は、露座(ろざ)の金仏では東海地方最大のものである。 1718年(享保3年)、江戸鋳物師太田近江が配下の鋳物師とともに鋳造したもので、山田七郎左衛門は駿遠両国鋳物師惣大工として名を刻んでいる。(森町飯田 高平山遍照寺)」と紹介されていた大仏の手は、重ねて上を向けて組む禅定印。

「駿遠兩國鑄物師惣大工 森町住 山田七郎左衛門尉藤原種満」 見た目は釈迦如来のようですが、菩薩のような宝冠を被った下から覗く髪は、パーマのような螺髪(らほつ)ではなく、結われた髪の宝髻(ほうけい)。これが大日如来の見分け。台座の蓮華座に「奉建立丈六大日如来」の文字も刻まれていました。

 さらに見ると「駿遠兩國鑄物師惣大工 森町住 山田七郎左衛門尉藤原種滿」の文字も。「木形佛師木村主計法橋」が原型を造り、「鑄物御大工江戸住 太田近江藤原正次造之」の名前も並んでいましたが、森の鋳物師・山田七郎左衛門が遠江・駿河両国の鋳物師のまとめ役としての朱印状を与えられていたのは間違いありません。



  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:12Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財ウォーキング・ぶらり旅・町歩き

2020年11月30日

牧之原市・石雲院を訪ねる④―総門と参道の丁石

石雲院の総門 石雲院の文化財は総門と参道の丁石も。牧之原市の公式HPの「石雲院」の「総門」の項には・・・

石雲院の総門 元亀年間(1570頃)の武田・徳川の兵火によって石雲院は焼失しましたが、林叟院六世の哉翁宗出和尚によって天正11年(1583)伽藍を再建し、輪番を再開しました。総門が始築されたのは江戸初期といわれています。「大圓覚」の額は江戸初期の禅僧月舟の書です。形式は高麗門です。

 総門は朱塗りの高麗門。それほど凝った建物とも思えませんが、石雲院に現存する中では、最古の建築物です。

参道の丁石 そして、「参道の丁石」は・・・

 石雲院には元禄と明治の2回に丁石が建てられています。元禄丁石は、元禄7年甲戌(1694)に切山の石工仁左ェ門が武州の浄牧院檀家の有志の菩提を供養するために建てた物である。明治丁石は、明治42年(1909)の開山忌に建てた物で、静岡市の北村市二郎が寄進した物である。

石積み ・・・とのこと。丁石にも興味はありますが、私は丸い川石を使った石積みも気になりました。


  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 05:11Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財ウォーキング・ぶらり旅・町歩き

2020年11月30日

秋晴れの下、見付の蔵めぐり⑯―大橋商店の新蔵

大橋商店の新蔵 大橋商店の新蔵は、白漆喰外壁の土蔵です。新蔵と言っても建築されたのは明治30年(1897)ですから、同じ大橋商店の奥蔵の3年後の落成。しかも、大工は石川代次郎と鈴木萬蔵。奥蔵を造った大工で構法も同じ洋小屋です。

腰壁の伊豆石 腰壁には伊豆石が積まれているのですが、石肌に現れている縞模様から考えると、石目に沿った方向ではなく、直交する方向に割られているようです。あえて割りにくい方向に割られた伊豆石。掛塚に残る林家の石塀と比べれば、その違いは明らか。

「丸に中陰松皮菱」紋
「○中」

 鬼瓦に浮かぶのは「丸に中陰松皮菱」紋。奥蔵では屋号の「○中」が使われていましたので、商品の収蔵庫として建てた奥蔵と重要な文書や金品を収蔵する文庫蔵として建てられた新蔵とは、思いが少し違っていたのかも知れません。


  

2020年11月29日

森の鋳物師・山田七郎左衛門の仕事を訪ねて①―大洞院龍門橋擬宝珠

龍門橋 森町の大洞院に出かけた目的は「森の石松の墓」ではなく、紅葉を楽しむためでした。ただ、その時、伏間川に架かる赤い龍門橋を渡ろうとした時、橋の手前に「町指定文化財 龍門橋擬宝珠」と書かれた標柱が目に留まりました。

龍門橋の擬宝珠 写真を撮って帰り、インターネットで検索してみると森町の公式HP「22 森町の鋳物師」がヒットし、「龍門橋の擬宝珠8本は、山田七郎左衛門が1785年(天明5年)に鋳造したものである」と知ることが出来ましたので、すぐに大洞院を再訪し、擬宝珠に顔を近づけ、刻まれた文字を読んでみました。

「銀二朱 山田次良左衛門」「同二朱 山田伊左衛門」
「遠州森大洞院龍門橋 擬宝珠八本之内」「施主 中町 二両一分 山田七郎右衛門」

 すると、擬宝珠の1本に「遠州森大洞院龍門橋 擬宝珠八本之内」「施主 中町 二両一分 山田七郎右衛門」の文字が。「山田七郎左衛門」と「山田七郎右衛門」は名前が似ていますが、これは寄付者の名?別人かも知れません。

 別の擬宝珠には「銀二朱 山田次良左衛門」「同二朱 山田伊左衛門」の名も見られますが、「天明五乙巳歳七月吉日」は間違いなさそうです。

  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 03:47Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財ウォーキング・ぶらり旅・町歩き

2020年11月29日

千草の渡し場に立つ常夜燈と道標

千草の秋葉山夜燈 浜松市天竜区小川の千草と言えば、まさに秋葉山の麓。秋葉山の常夜燈があっても何ら不思議ではありません。ただし、写真の常夜燈は県道285号から少し登った場所の石仏群と一緒にあり、道沿いというわけではありませんので、かなり見つけにくいところです。

 常夜燈とは言いましたが、残っているのは竿に当たる部分だけ。火袋はなく、石がのっかっているだけ。もしかしたら、最初から石の火袋ではなく、木製の燈籠が乗っていたのかも知れません。建立年は不明ですが、「秋葉山夜燈」の文字が刻まれているのが分かります。


右小川 左あき者(は)
右小川 左東雲名
右二俣 左小川

 ここは千草渡船場からの秋葉道。「右小川 左あき(は)」「右小川 左東雲名」「右二俣 左小川」の3本の道標がすぐ近くに。西から南から秋葉山を目指し、千草の渡しで船に乗った秋葉詣の人々は、道標で秋葉道を確認し、常夜燈を見て秋葉山が近いことを知ったことでしょう。

 さあ、山頂の秋葉大権現までは、あと少し。ここからは、急な登り坂が始まります。
  

2020年11月29日

牧之原市・石雲院を訪ねる③―本堂の「龍門の滝」

石雲院本堂 山門の彫刻を見上げたら、見逃してはいけないのは堂々たる唐破風の本堂。懸魚に刻まれているのは翼竜です。

石雲院本堂 本堂玄関の左右の袖にある「龍門の滝」の彫刻も、石雲院の山号「龍門山」に由来するもの。下絵を描いたのは平井顕斎(1802-1856)とのこと。平井顕斎は地元・遠江国榛原郡青池村谷之口(現在の牧之原市)生まれ、崋山門十哲の一人に数えられる南画家です。

「龍門の滝」の彫刻
「龍門の滝」の彫刻

 本堂が再建されたのは天保14年(1843)でしたので、まさに平井顕斎の絶頂期。掛塚の旧廻船問屋・津倉家には平井顕斎が描いた襖絵が残されていますので、「みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚」会員の私にはお馴染みの画家です。

 牧之原市の公式HPの「石雲院」の項には「左側は『立川庵雪曲』の印形がみえます。右側には『顕斎図 立川庵彫□』の印があります。」と書かれていますが、果たしてこれがいわゆる諏訪立川流の彫師によるものかは不明・・・。むしろ、山門の精緻な彫刻の方が立川流のように見られました。


  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 03:39Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財ウォーキング・ぶらり旅・町歩き

2020年11月29日

秋晴れの下、見付の蔵めぐり⑮―大橋商店の土蔵と奥蔵

大橋商店の土蔵 大橋商店の土蔵(写真の右隅)は明治元年(1868)築とされ、元々は西隣の佐藤金物店の蔵だったものを譲り受けたもの。以前は家財の収納などに使われていたものを、住居に改造されましたので、外から見るだけでは土蔵らしい雰囲気はあまりありません。

大橋商店の奥蔵 奥蔵とされる蔵も、北側正面から見れば白漆喰や海鼠壁の残る白壁に腰板の土蔵。しかし、南側から見ると白塗りのトタン張りで補修されています。

大橋商店奥蔵の洋小屋 この蔵には棟札が残され、明治27年(1894)3月20日築で大工は石川代次郎、鈴木萬蔵。伝統的な和小屋構法が多い時代に造られたにも関わらず、小屋組みに斜材を取り入れ、三角形のトラスで屋根の荷重を支える洋小屋の構造が使われているのが画期的です。

大橋商店の奥蔵 側面の腰板の部分は、板を重ねて張った下見張り。重ねた板は、角折釘を用いて角材で固定されています。これは、いざ近くで火事が発生した時、即座に角材を叩き落として板壁を外し、延焼を防ぐための工夫。今も昔の、やはり怖いのは火事です。


  

2020年11月28日

明日の来客を前に、旧津倉家の清掃日

旧津倉家の清掃 冬の訪れを感じさせる北西の強い風が吹く11月28日(土)は旧津倉家の清掃日。月1回、「みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚」が磐田市から委託されている作業です。

 昨日(27日)は竜洋西小3年生、明日(29日)には「磐田クスノキ大学」のみなさんが見学に訪れます。かなり強めの風はが吹いていましたので、窓は全開せずに空気を入れ替える程度。埃がたまっているわけではありませんが、はたきをかけて掃除機で吸い取り、雑巾がけで仕上げ。

 すっかり慣れた作業ですが、明日も来客があると思うと、気分はちょっと違いますね。

 【関連記事】叩いて、掃いて、拭く、旧津倉家の清掃作業①―毎月1回
  

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 12:03Comments(0)みんなと俱楽部 ⚓ 掛塚