2020年07月27日
我が故郷の気賀(きが)を歩く⑫―藺草神社
宝永四年(一七〇七年)の十月、遠州地方で大地震があり、押し寄せた高潮のため、浜名湖沿岸の田には塩が入り、稲は全滅の状態でした。
困り果てた村の庄屋達は、当時の気賀の領主近藤縫殿助用隨(ぬいのすけもちゆき)公に、その苦境を訴えました。
領民のためを思う名君であった用隨公は、今後の稲作の事を、領民と共に思い悩みました。
それからしばらくして、用隨公は、大阪での会議で隣り合わせた豊後の国(現在の大分県)の領主松平市正に、領内の窮状を相談したところ、市正は、「ほう、それはお困りじゃな。では、余の領内の豊後の藺草(いぐさ)を植えたらどうじゃ。これは、塩に強いということでな」と言い、国元から琉球藺の苗を取り寄せてくれました。
大いに喜んだ用隨公はこれを持ち帰り、領内の田に植えさせました。
これが、浜名湖岸一帯の名産物、琉球藺の始まりです。その後、琉球藺は周辺の各村に広まり藺草を使った畳表の製織は、冬の農家の副業として、この地方を潤しました。
この藺草神社は、藺草をこの地方に初めて広めてくれた用隨公の徳をたえて造られたものです。
それにしても、近藤用隨は「こんどうようずい」とばかり思っていましたが、「もちゆき」と読むとは知りませんでした。今、テストに出たとしたら「×」かな?