2020年08月07日
我が故郷の気賀(きが)を歩く㉓―堀川城跡と獄門畷
そして、建てられた「獄門畷」の解説看板によれば・・・
永禄十二年(一五六九)三月二十七日、堀川城に二千人の男女が立てこもり、三千人の家康軍に攻められて、落城したといわれている。大久保彦左衛門の記録に「男女共になで切りにした。
とある。そしてその後に捕えられた約七百人の人々も、同年九月九日にこの付近で首を打たれた。その首をこの小川に沿った土手にさらしたので「ごくもんなわて」と言われるようになった。
昭和六十三年三月二十日
細江町教育委員会
堀川城の名の由来となった川は、おそらく当時は現在よりも北側、山際を洗うように幅広く流れていたと思われる都田川。人々が棲み付いた山裾の地が、気賀宿となったのだろうと思います。
我が故郷の気賀にとって悲しい歴史を知るにつけ、かつての気賀の地形が見えて来たような「気が」しました。