› 自然と歴史の中を歩く! › 2018年09月
2018年09月30日
遠信国境・青崩峠を歩く③―2012年冬の「足神様の氷壁」
「さば地蔵」「やまめ地蔵」と呼ばれている石像の手前、寒い冬の季節にだけ現れる「足神様の氷壁」を訪ねたことがありました。振り返ってみれば、あれは2012年1月30日。タイムトンネルを抜けて、壮大な自然現象を紹介しましょう。
氷壁は、岩から染み出した水が凍りついた幾筋もの長い氷柱(つらら)。氷柱は徐々に成長し、まるでギリシャ神殿の大理石の柱みたい。下には重さに耐え切れずに落下した氷柱が転がり、薄っすらと雪に覆われていました。
氷壁は、岩から染み出した水が凍りついた幾筋もの長い氷柱(つらら)。氷柱は徐々に成長し、まるでギリシャ神殿の大理石の柱みたい。下には重さに耐え切れずに落下した氷柱が転がり、薄っすらと雪に覆われていました。
この壮観が、温暖な地と考えられている浜松市の、「青崩峠」というよりも「白崩峠」の絶景です。
2018年09月30日
中秋の天竜スーパー林道⑤―テンニンソウ
竜頭山の登り口近くで咲くシソ科のテンニンソウの群落。花の時季はもう終わりに近いらしく、白かった花は黄ばみ、多くの花穂は花が終わって黒ずんでいました。
葉は虫に喰われてボロボロでしたが、「テンニンソウ(天人草)」の名は、その様子を天人の羽衣(破衣)に例えとする説もありますが、ちょっと信じたくありませんね。
葉は虫に喰われてボロボロでしたが、「テンニンソウ(天人草)」の名は、その様子を天人の羽衣(破衣)に例えとする説もありますが、ちょっと信じたくありませんね。
虫には好かれていますが、鹿にとっては忌避植物。だとすれば、もっと増えてもよさそうなんですが・・・。
2018年09月30日
初秋の青谷を歩く⑦―小堀谷鍾乳洞
すでに何度か紹介した「小堀谷鍾乳洞」は決して広くはありません。洞窟の長さは62メートルですから、少し奥に入るとすぐに裏口の明かりが見え、洞窟のような狭いところが苦手の人でも恐怖感や閉塞感はあまりありません。
中央の回りこんだ辺りに高さ約10メートルのホールがあり、伝説の「神像」と呼ばれるお地蔵さまに似た石が壁際で異彩を放っています。
頭部に似せた丸い石は後から乗せたもののようですが、見た目はまさしくお地蔵さま。
中央の回りこんだ辺りに高さ約10メートルのホールがあり、伝説の「神像」と呼ばれるお地蔵さまに似た石が壁際で異彩を放っています。
頭部に似せた丸い石は後から乗せたもののようですが、見た目はまさしくお地蔵さま。
地元の人の話によれば、洞窟はもっと長かったのだそうですが、狭くて危険なため埋められ、昭和58年(1983)、旧天竜市により観光鍾乳洞として整備されたとのことです。
2018年09月30日
久根鉱山について考える⑯―「久根鑛業所カーバイト工場」
若い人たちにはピンと来ないかも知れませんが、私たちの子どもの頃には、まだカーバイトカンテラがありました。
坑道の奥に入り、かつて鉱石を採掘する鉱夫たちの照明は、松明(たいまつ)や篠竹だったのです。久根鉱山に先駆けて古河鉱業が経営していた足尾銅山でも、明治14年(1881)頃にはサザエの殻に種油を入れて灯す灯明が使われ、やがてサザエの殻が鉄製の容器(鉄葉)に代わり、移動式のカンテラとなり、カーバイト(炭化カルシウム)による携帯灯が導入されたのは、同42年(1909)頃だというのです。
久根鉱山施設内にあったと思われる「久根鑛業所カーバイト工場」では、石炭あるいはコークスを原料として坑内の照明用のカーバイトを自社製造していたものと思われます。
工場の赤レンガ造りの煙突からは、もくもくと煙が上がっています。久根鉱山の歴史の陰の部分、塵肺被害の一因には、粉塵以外にこの煙害もあったのかも知れません。
坑道の奥に入り、かつて鉱石を採掘する鉱夫たちの照明は、松明(たいまつ)や篠竹だったのです。久根鉱山に先駆けて古河鉱業が経営していた足尾銅山でも、明治14年(1881)頃にはサザエの殻に種油を入れて灯す灯明が使われ、やがてサザエの殻が鉄製の容器(鉄葉)に代わり、移動式のカンテラとなり、カーバイト(炭化カルシウム)による携帯灯が導入されたのは、同42年(1909)頃だというのです。
久根鉱山施設内にあったと思われる「久根鑛業所カーバイト工場」では、石炭あるいはコークスを原料として坑内の照明用のカーバイトを自社製造していたものと思われます。
工場の赤レンガ造りの煙突からは、もくもくと煙が上がっています。久根鉱山の歴史の陰の部分、塵肺被害の一因には、粉塵以外にこの煙害もあったのかも知れません。
カーバイトと聞いてもピンと来ないの若者にも、少し立ち止まって考えていただきたい問題です。
2018年09月30日
諏訪大社を訪ねて㉔―万治の石仏
「万治の石仏」は、諏訪郡下諏訪町下ノ原の諏訪大社下社春宮(はるみや)脇を流れる砥川(とがわ)沿いを少し歩いた所にあります。
万治の石仏と伝説
南無阿弥陀仏万治三年(一六六〇)十一月一日 願主明誉浄光 心誉廣春
伝説によると、諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。 下諏訪町
「万治の石仏」は、「芸術は爆発だ!」の岡本太郎が大絶賛したことで一気に有名になり、現地には岡本太郎が揮毫した「万治の石佛」の石碑が建てられています。
「万治の石仏」の「万治」とは石工の名とばかり思っていましたが、「万治三年」と刻まれているからだとか。しかし、願主の明誉浄光も心誉廣春も僧籍に名がなく、江戸時代の地図にも描かれていないなど「?」マークが付いています。しかも、左胸に逆卍が刻まれているところから、「卍⇒まんじ⇒万治」となったという説も。
それにしても、「万治の石仏」の大きなこと。日本人離れしたおおらかさです。「万治の石仏」のお参りの仕方は「万(よろず)治まりますように」だって。なるほど、「万治」だけにね・・・。
万治の石仏と伝説
南無阿弥陀仏万治三年(一六六〇)十一月一日 願主明誉浄光 心誉廣春
伝説によると、諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。 下諏訪町
「万治の石仏」は、「芸術は爆発だ!」の岡本太郎が大絶賛したことで一気に有名になり、現地には岡本太郎が揮毫した「万治の石佛」の石碑が建てられています。
「万治の石仏」の「万治」とは石工の名とばかり思っていましたが、「万治三年」と刻まれているからだとか。しかし、願主の明誉浄光も心誉廣春も僧籍に名がなく、江戸時代の地図にも描かれていないなど「?」マークが付いています。しかも、左胸に逆卍が刻まれているところから、「卍⇒まんじ⇒万治」となったという説も。
それにしても、「万治の石仏」の大きなこと。日本人離れしたおおらかさです。「万治の石仏」のお参りの仕方は「万(よろず)治まりますように」だって。なるほど、「万治」だけにね・・・。
春宮(はるみや)の石の大鳥居はこれ。傷から血が流れた石は、鳥居の石でしょうか?それとも、石仏の石?
2018年09月29日
遠信国境・青崩峠を歩く②―さば地蔵?やまめ地蔵?
標高1082.5メートルの青崩峠ですが、南信濃と水窪との標高差はそんなにはありません。それを考えれば、両地域の交流や交易は盛んだったことが想像できます。そんな歴史を物語る記念碑とも言えるものの1つが、足神神社の下、冬には見事な氷壁が出来る沢の少し上にある小さな祠の中に残されています。
中には2体の石仏が納められているのですが、そのうちの1体は胸元に魚を抱えた姿。この石像を巡り、「さば地蔵だ」「いや、やまめ地蔵だ」の2説があるようです。
「さば地蔵」説によれば、海のない信州へ海産物を運ぶ人々が、腐らないように祈願して建立したとされ、「やまめ地蔵」説によれば、翁川の「おとも淵」に棲む「やまめ」の夫婦のうちの1匹を釣り上げた祟りで、山崩れなどが起こり、村人たちが供養のために建てたとのこと。
どちらの説にも、もっともな理由がありますが、この祠が近づきにくい沢の岸に建てられ、背後には今にも崩れそうな大岩があるところを見ると、山崩れ、土石流から逃れるために「やまめ地蔵」を祀ったと考えるのが正解かも。
中には2体の石仏が納められているのですが、そのうちの1体は胸元に魚を抱えた姿。この石像を巡り、「さば地蔵だ」「いや、やまめ地蔵だ」の2説があるようです。
「さば地蔵」説によれば、海のない信州へ海産物を運ぶ人々が、腐らないように祈願して建立したとされ、「やまめ地蔵」説によれば、翁川の「おとも淵」に棲む「やまめ」の夫婦のうちの1匹を釣り上げた祟りで、山崩れなどが起こり、村人たちが供養のために建てたとのこと。
どちらの説にも、もっともな理由がありますが、この祠が近づきにくい沢の岸に建てられ、背後には今にも崩れそうな大岩があるところを見ると、山崩れ、土石流から逃れるために「やまめ地蔵」を祀ったと考えるのが正解かも。
しかし、真相は謎のまま。手にした魚が鯖か山女かは分かりませんでしたが、沢のそばではツリフネソウも花を咲かせていました。「釣舟草」?確か、「吊舟草」だったと思うけど・・・。
2018年09月29日
中秋の天竜スーパー林道④―ミヤマママコナ
スーパー林道ではミヤマママコナの花がまだ咲いていました。
花の姿は、いかにもゴマノハグサ科なのですが、APG植物分類体系では、いつの間にかハマウツボ科に移されているみたい。半寄生植物ですから、自分でも葉緑素を持ち光合成を行いますが、他の植物からも栄養を摂っています。
この不思議な花の名前は、下唇の膨らみがご飯粒に似ているから飯子(ままこ)、継子(ままこ)に食べさせる不味い菜などの説がありますが、半寄生植物だから「継子」の可能性もあります。
花の姿は、いかにもゴマノハグサ科なのですが、APG植物分類体系では、いつの間にかハマウツボ科に移されているみたい。半寄生植物ですから、自分でも葉緑素を持ち光合成を行いますが、他の植物からも栄養を摂っています。
この不思議な花の名前は、下唇の膨らみがご飯粒に似ているから飯子(ままこ)、継子(ままこ)に食べさせる不味い菜などの説がありますが、半寄生植物だから「継子」の可能性もあります。
宿主がいない場合には小さく、宿主がいる場合には大きくなるそうですが、スーパー林道のミヤマママコナの継母は誰なんでしょう?
2018年09月29日
初秋の青谷を歩く⑥―アキカラマツとツチイナゴ
青谷の山道で「秋」を感じさせてくれたのは「秋落葉松(アキカラマツ)」。名前に「秋」と付けられてはいますが、目にする機会は多くありません。別名は、落葉松が育つ「高遠(たかとお)」の地名を冠した「高遠草」。高遠では、古くから胃薬として用いられて来たそうです。
カナムグラの葉に止まっていたのはツチイナゴ。名前は「土稲子(ツチイナゴ)」ですが、土の上はあまり好きじゃあないみたい。
カナムグラの葉に止まっていたのはツチイナゴ。名前は「土稲子(ツチイナゴ)」ですが、土の上はあまり好きじゃあないみたい。
ツチイナゴが現れるのは、これからの季節。卵で越冬する他のバッタとは違い成虫で冬を越します。
2018年09月29日
久根鉱山について考える⑮―「久根銅山鑛石運搬船天竜川戸口前登船實景」と「久根鑛業所鑛石船積」
佐口行正さん所蔵の久根鉱山の古い絵葉書お借りした「廣田商店發行」の11枚組「久根銅山繪葉書」です。
「久根銅山鑛石運搬船天竜川戸口前登船實景」には、「∧(ヤマ)一」の帆印を掲げたたくさんの帆掛け舟が写っています。その数を数えてみると、何と16艙。一体、久根鉱山には何艘の鉱石船があったのでしょうか?
かつては精錬まで久根で行われていたのですが、精錬の煙が草木を枯らすなどの鉱害問題が深刻化し、明治32年(1899)に古河鉱業が買い取ってからは、久根では選鉱までとし、鉱石を西鹿島まで運び、そこから鉄道輸送によって足尾に運び、足尾で精錬することにしたのです。
最盛期であった大正6年(1917)頃の鉱石船の数は250艘。船頭600人を抱え、1艘で約4トンの鉱石を「久根鑛業所鑛石船積」で積み込み、天竜川を下りました。
「久根銅山鑛石運搬船天竜川戸口前登船實景」には、「∧(ヤマ)一」の帆印を掲げたたくさんの帆掛け舟が写っています。その数を数えてみると、何と16艙。一体、久根鉱山には何艘の鉱石船があったのでしょうか?
かつては精錬まで久根で行われていたのですが、精錬の煙が草木を枯らすなどの鉱害問題が深刻化し、明治32年(1899)に古河鉱業が買い取ってからは、久根では選鉱までとし、鉱石を西鹿島まで運び、そこから鉄道輸送によって足尾に運び、足尾で精錬することにしたのです。
最盛期であった大正6年(1917)頃の鉱石船の数は250艘。船頭600人を抱え、1艘で約4トンの鉱石を「久根鑛業所鑛石船積」で積み込み、天竜川を下りました。
昭和9年(1934)、三信鉄道が開通してからは、久根から「中部天竜」駅まで空中索道で1日100トンの鉱石を運ぶようになり、帆掛け船による輸送は途絶えました。帆を連ねて天竜川を遡る帰帆の風景が見られたのは、それ以前のことになります。
2018年09月29日
諏訪大社を訪ねて㉓―下馬橋
諏訪郡下諏訪町下ノ原の諏訪大社下社春宮での見所の1つは、参道中央にある「下馬橋」。「何人も御手洗川に架けたこの橋の手前で馬から降り、川の水で身を清めた」とされる木製の太鼓橋です。
「下馬橋」の建立は室町時代と言われますが、建築様式は鎌倉時代のものとされ、元文年間(1736~(1741)に修築されたと推定されています。春宮の幣拝殿の完成は安永9年(1780)ですから、それよりも古い時代のもの。
道路改修により御手洗川は暗渠になってしまいましたが、「下馬橋」の下を確かに流れています。
普段は渡ることが出来ない橋ですが、遷座祭の時には白丁(はくてい)に担がれた祭神が宿る御霊代(みたましろ)だけが渡ることが出来ます。
それにしても、280年近くも前の橋が、よくぞ今まで残っていたものです。
「下馬橋」の建立は室町時代と言われますが、建築様式は鎌倉時代のものとされ、元文年間(1736~(1741)に修築されたと推定されています。春宮の幣拝殿の完成は安永9年(1780)ですから、それよりも古い時代のもの。
道路改修により御手洗川は暗渠になってしまいましたが、「下馬橋」の下を確かに流れています。
普段は渡ることが出来ない橋ですが、遷座祭の時には白丁(はくてい)に担がれた祭神が宿る御霊代(みたましろ)だけが渡ることが出来ます。
それにしても、280年近くも前の橋が、よくぞ今まで残っていたものです。
諏訪大社二社四宮の訪問は、これにて終了。ついでですから、近くにある「万治の石仏」を訪ねてみましょう。