2019年05月24日
名望家・原田久吉翁の足跡を辿る②―「磐田郡誌」
【原田橋】 浦川・水窪往還中、浦川村川合と佐久間中部との間を流るゝ天龍川は、古來渡船に依りて纔かに交通せしも、霖雨に遭ふ毎に出水甚しくして、動もすれば交通を杜絶せらるゝことあり。住民其の不便を憂ふれども、多額の費用を要するを以て、力、辨ずること能はず。時に中部出身なる横濱市原田久吉氏、之れを聞き、自ら一萬六千有餘圓の資を出し、以て工を助け、吊橋を造れり。日を費すこと四百七十餘、大正四年四月二十二日、官民相會して之が落成を祝したりき。塔柱間隔三百六十九尺、碑文を左に錄す。
原 田 橋 記
従一位勲二等侯爵久我通久題額 八十三翁鴻齋石川英撰
八十二翁得庵市河三鼎書
孔子曰里仁爲美夫有仁人爲仁里有仁里而爲美俗言不以教之行以示之復可以自化爲原田翁仁人也(以下略)
「原田橋記」は、落橋事故発生前の原田橋の袂に建てられていた「種徳賑郷」の碑文。私も読もうとして読み切れなかった碑文が返り点付きで印刷されていました。