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2017年05月17日

郷土の偉人・長谷川貞雄について振り返る⑰―死後に建立された「戊辰之役報國紀念碑」

「報國隊建碑之義」のハガキ 現在、五社公園内にある「戊辰之役報國紀念碑」を建てたい旨を、長谷川貞雄が大久保忠利に宛てに記した文書「報國隊建碑之義」のハガキが残っています。

五社公園内にある「戊辰之役報國紀念碑」 相談会は明治36年(1903)11月14日に開かれ、4年後の同40年(1907)11月に建立されたのが「戊辰之役報國紀念碑」なのですが、そのハガキを出した長谷川貞雄は、同38年(1905)2月8日に逝去していたはずです。

そのことに気づき、長谷川貞雄の名を確認してみようと考え「戊辰之役報國紀念碑」を訪問。裏面いっぱいにびっしりと刻まれた名前の中から、長谷川貞雄の名を探してみました。

長谷川貞雄の名 すると、一番下の列、「發起人」の先頭に「従三位勲二等長谷川貞雄」と刻まれていました。そして、その頭には「故」の文字も刻まれているのに気づきました。つまり、「明治四十年十一月建之」の時、長谷川貞雄はすでにこの世にはいなかったのです。

 長谷川貞雄の左隣には、同じ遠州報国隊の同志「男爵大久保春野」の名が刻まれていました。

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