2017年05月13日
郷土の偉人・長谷川貞雄について振り返る⑬―弁天島楽園跡

誠心女学校を作ったのは息子の鐡雄様だった。鐡雄様というは、あんまり、利口には利口だっただが、弁天島を一人で買い占めちゃった。よかないわいね。その時分には、今の弁天とは違ってね、小さくて山の島だったの。川中島で。松ん生えてるだけでね。あんななとこ、買うじゃあなかっただで。
今はあんなに立派なもんだん、ね、埋め立てて。当時は松の木が生えてて、小さな島だった。貞雄様は国から買ったでしょ。弁天島を売り出した当時はまだ家はたくさんなかったでしょ。なぜっていうと弁天島を売って、誠心女学校に金を掛けたです。
長谷川鐡雄が購入し、「楽園」を創ったのは、JR弁天島駅北側。現地を訪ねてみると、現在は児童遊園地として利用されている辺りが「楽園」の跡。「舞阪町教育委員会」で建てた看板が、かつての繁栄を伝えています。
弁天島楽園(らくえん)跡

楽園は大衆納涼場で海水浴場として諸設備や百米のプール、三百坪余りの大浴場、二百五十室からの貸席、五千人が利用できる無料の大休憩場からなり貸船、遊船、売店、余興娯楽の他、和洋食や飲物を安価で提供する大食堂があり、まさに夏のレジャーセンターとして多くの人で賑わった。

しかし、この楽園も北弁天の埋立てが進むと共に経営も悪化し、昭和十一年(一九三六)に終焉をむかえた。(舞阪町教育委員会)
「フジヤマのトビウオ」古橋広之進らの名選手を生み出したのが浜名湾遊泳協会だとすれば、彼らを育てたのは、長谷川鐡雄の「楽園」にあった100メートルの弁天島プールだったのです。