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2017年05月18日

郷土の偉人・長谷川貞雄について振り返る⑱―浜松開誠館の長谷川鉄雄像

寄附者 金三拾円 長谷川鉄雄 五社神社の「戊辰之役報國紀念碑」の「發起人」の筆頭に名を刻まれた長谷川貞雄ですが、死後に建立されたため、「寄附者」には貞雄の四男、「長谷川鉄雄」の名が同じく筆頭に刻まれています。

 金額は「金三拾円」。現在の40万円くらいでしょうか?

 長谷川鉄雄は、明治14年(1881)8月、長谷川貞雄の四男として東京で暮らし、同28年(1895)4月、長谷川家は浜松市松城町に転住しましたが、大正13年(1924)その地に開校したのが誠心高等女学校。現在の開誠館高校です。

 そんな経緯のある開誠館高校を訪ねたところ、玄関先の正面と玄関内の2ヶ所で「長谷川鉄雄先生之像」の立像と「長谷川鉄雄先生」の胸像がありました。

長谷川鉄雄先生
長谷川鉄雄先生之像

 立像の下に嵌め込まれた年譜プレートによれば、終戦の年、昭和20年(1945)4月の浜松空襲により、誠心高等女学校校舎と住宅は焼失し、同年8月、鉄雄は弁天島の遠州学友会水泳部宿舎にて65歳でこの世を去りました。

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