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2018年10月05日

遠信国境・青崩峠を歩く⑦―「木地屋の墓」と栃の巨木

「木地屋の墓」 足神神社のすぐ先、「木地屋の墓」でもショートストップ。かつての水窪は、轆轤(ろくろ)を使って椀や盆などの木工品を加工、製造する職人集団「木地屋(木地師)」たちが暮らしていました。

 解説看板によれば・・・

「木地屋の墓」の解説看板 木地屋(キジヤ)は山中の木を伐って椀とか盆などの木地を作る特殊の工人である木地屋という名稱はおそらく椀というものができてのちのことにちがいない。木地屋のことを「くりや」「木地くり」「くりし」とも呼ぶ。これらの木地屋は原料である良材(トチ、ケヤキ、ブナ)を求めて全国にわたって山から山へと漂泊の旅を続けた。彼等は日本の工芸品生産上重要な役割を果した人々であった。木地屋の本拠地は滋賀県東小椋村といわれる。

「木地屋の墓」 ここには二体の木地屋の墓を安置してある。1947年(正保4年)全国5万人 出典 宮本常一著「山に生きる人びと」より


 向かって左側の墓石には、菊紋が刻まれていました。花弁の数までは分かりませんでしたが、十六弁とのこと。青崩峠を越えて遠江と信濃の国を結ぶ交易の道沿いに建てられた2基の墓には、きっと漂泊の民としての深い思いが込められているような気がします。

栃の巨木 水窪には木地屋を連想させる六呂場(ろくろば)山や丸盆岳などがあります。これらはきっと、かつての木地屋たちが名付けた山の名。栃生山も戸中山も、原料とした栃の木に因む名と考えられます。

 そして、「木地屋の墓」の近くには、写真のような栃の巨木が。この豊かな自然があったからこそ、木地屋たちは水窪で暮らしたのだと思います。

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