2023年01月14日
秋葉街道「大野宿」を歩く⑭―琴盛稲荷
東陽小学校の南側の道を少しだけ歩くと「霊験あらたかな琴森稲荷」の看板がありました。
霊験あらたかな琴森稲荷
今から約六〇〇年程前の南北朝時代の頃、この大野付近を支配していた鈴木与三郎によって、城山に城が築かれたとき、南の鎮守の神として祭られ、後に現在の東陽小学校の敷地となっている場所に建てられた永明庵の守護神として祭られてきた。
大野が秋葉街道の宿場として栄えた頃には、商売繁昌の神として、又、なくし物をした時の願かけの霊験あらたかな神として評判が高く、今もなお参拝客が絶えない。
山道を登って行くと、赤鳥居と「琴森稲荷大明神」の赤い幟がびっしりと建てられ、その奥に赤い社がありました。
菅原神社の境内社にも「琴秋神社」と金毘羅社ゆかりの「琴」が付けられていましたが、「琴森稲荷」の「琴」はこの地区の字名とのこと。金毘羅社とのゆかりはないのでしょうか?
霊験あらたかな琴森稲荷
今から約六〇〇年程前の南北朝時代の頃、この大野付近を支配していた鈴木与三郎によって、城山に城が築かれたとき、南の鎮守の神として祭られ、後に現在の東陽小学校の敷地となっている場所に建てられた永明庵の守護神として祭られてきた。
大野が秋葉街道の宿場として栄えた頃には、商売繁昌の神として、又、なくし物をした時の願かけの霊験あらたかな神として評判が高く、今もなお参拝客が絶えない。
山道を登って行くと、赤鳥居と「琴森稲荷大明神」の赤い幟がびっしりと建てられ、その奥に赤い社がありました。
菅原神社の境内社にも「琴秋神社」と金毘羅社ゆかりの「琴」が付けられていましたが、「琴森稲荷」の「琴」はこの地区の字名とのこと。金毘羅社とのゆかりはないのでしょうか?