2021年06月04日
西地区自治会長による「掛塚歴史さんぽ」⑤―平野又十郎生家
平野又十郎(1853~1928年)は、掛塚村(今の磐田市掛塚)の廻船問屋に生まれました。
幼い頃から向学心に富み、近くの寺で漢学を学びました。明治維新で社会が大きく変化すると、新しい世界を学ぶため、東京に出て、官僚の家の住み込み書生になりました。その後、神戸の会社に勤め、経営や洋式簿記、英語などを学びました。
ジェームズ・ペイトン号事件の時、通訳として活躍したのが又十郎です。英国船が福島村(今の浜松市南区福島町)に座礁してから船員を横浜に送り届けるまで通訳を務めました。英語を理解できる人が他にいない中で万が一にも間違えがあっては困るので、砂地に英語を書いて確認したこともあったそうです。
又十郎の知識欲は旺盛で、東京の新聞を取り寄せ、自分が読んだ後は自宅の近くに設けた新聞縦覧所に掲示して村人にも広めました。
79(明治12)年、村人にお金の大切さを説き、同心遠慮講という貯蓄組合をつくりました。毎月、お金を積み立てて生活に備えるとともに、講演会を開いて新しい知識を広めたり、図書館を開いて村人に学ぶ場を提供したりしました。同心遠慮講は、遠州地方で盛んだった報徳思想と結びつき、地域の近代化を推し進める大きな力になりました。
◆金融にも尽力 今の静岡銀行に
80(明治13)年、浜松で金融業と貿易業を兼ねた西遠商会をつくり、5年後、西遠銀行をつくりました。その後、他行と合併を重ね、1920(大正9)年、県下最大の資本力を持つ遠州銀行をつくり上げました。遠州銀行は、新遠州銀行を経て、又十郎の死後、県内三大銀行が合併し、今の静岡銀行になりました。
又十郎は、明治期の浜松三大会社の一つといわれた帝国制帽(今のテイボー)など、多くの会社の創業にも深く関わりました。
そして、その平野又十郎の生まれた家が、なまこ壁の蔵や伊豆石の塀が印象的な掛塚の旧廻船問屋・林家。古い家はすでに解体されたり移築されたりしてしまいましたが、眺めるだけで掛塚の歴史を思い出させてくれる美しい石塀が残されています。