2018年01月31日
浮世絵に描かれた秋葉山④―「五十三次名所圖會 廿七 懸川」歌川廣重
歌川廣重と言えば「五十三次」―それほど有名な「東海道五十三次」ですが、実はよく知られた「保永堂版」(天保4年)以後、20以上の「五十三次もの」を描いています。秋葉神社で見た「五十三次名所圖會」は、安政2年(1855)に蔦屋という版元から発行された「竪(たて)絵」と呼ばれているシリーズです。
その「廿七 懸川 秋葉道 四十八瀬ごえ」とは、森町を流れる三倉川のこと。江戸時代、三倉川のことを四十八瀬川と呼び、一ノ瀬から四十八回瀬を渡って犬居に向かっていました。
奥に見える黒い山が、おそらくは秋葉山。秋葉詣の旅人たちは懸川(掛川)から三倉川の浅瀬を幾度も幾度も着物の裾をまくって歩いて越え、名にし負う火伏せの霊山、秋葉山へと向かったのでしょう。
苦が多ければ多いほど、きっとご利益も多いはず。当時、各地で生まれた秋葉講の代表者は、講中の安全のためのお札を受けに、ただひたすらに秋葉山を目指したのでした。
その「廿七 懸川 秋葉道 四十八瀬ごえ」とは、森町を流れる三倉川のこと。江戸時代、三倉川のことを四十八瀬川と呼び、一ノ瀬から四十八回瀬を渡って犬居に向かっていました。
奥に見える黒い山が、おそらくは秋葉山。秋葉詣の旅人たちは懸川(掛川)から三倉川の浅瀬を幾度も幾度も着物の裾をまくって歩いて越え、名にし負う火伏せの霊山、秋葉山へと向かったのでしょう。
苦が多ければ多いほど、きっとご利益も多いはず。当時、各地で生まれた秋葉講の代表者は、講中の安全のためのお札を受けに、ただひたすらに秋葉山を目指したのでした。