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2018年12月25日

交易の歴史を学びに佐久間へ⑰―「豆こぼし」

「豆こぼし」 佐久間の集落を眺めた場所からは、先ほどその手前を左折して来た「豆こぼしトンネル」も見えます。

 初版「さくま昔ばなし」で語られる「豆こぼし」とは・・・

 佐久間中学校から天龍川をのぞむと、佐久間発電所から吐き出された水はまるで対岸の壁に押し寄せるようにぶつかっていきます。そして、まさしく直角に曲がって流れていきます。県道四十六号の上に立ってのぞきこむと、流れは岩をかみ砕くかと思うばかりに襲いかかり、渦をまき、大きな波頭を逆立ています。これが、天龍川の舟運盛んな頃、難所中の難所として恐れられていた「豆こぼし」であります。

 豆こぼしのように急激に曲がりくねっているようすは、いろいろな自然のなせる技でしょうが、ともかく、大きな蛇行(川が蛇のようにうねうねと曲がって流れているようす)の一つに豆こぼしがあるわけです。

 豆こぼしという名のいわれは、こんなふうに伝えられています。

 幕末から明治初期にかけて、南信から北遠の地方では、大豆の栽培が盛んでありました。山へ分け入って焼畑作りをしたり、畑の囲り、あぜ道、さらには石垣にと、あらゆるところを使って豆を作っていたのです。収穫された豆は、舟に積まれて二俣の町の問屋へと運ばれたのです。山の中の厳しい生活の中で細々とした収入ながら、山合いの人々の豆にかける願いがこめられて、あばれ天龍の名のある流れを下ったのです。

 その船の何そうかが、この難所にさしかかると、腕利きの船頭によってあやつられながら、日によって微妙に変化する流れを避けることができず、荒々しい波の中へ転ぷくしてしまいました。船いっぱいに積まれた豆は、一気に天龍にのみこまれてしまったのです。こうしたことから「豆こぼし」といわれるようになりました。

 なお、豆こぼしの水面を見ると、渦をまき、わき渦が大きな盛りあがりをみせています。そのようすが、豆を盛りきって落ちかかるのと同じだとして「豆こぼし」と言う人もいます。

 豆こぼしから少し下がったところに、再び直角に曲がる流れがあります。ここは、「きょうど」といわれています。豆こぼしが舟運の難所とされたのに対し、この「きょうど」は、筏にとって豆こぼしよりも難儀なところとして恐れられていたといいます。

 さらに、小和屋(こわや)という地名は、これらの難所に対して「おお、こわや」というところからといわれています。

 昔の天龍川は、多くの難所をもちながら、幾多の船が行き来していました。帆をかけた船が上り下りする、船頭のかいさばきにあやつられ、また、細綱で引かれる船の姿もみられました。一そう二結の筏が流れのまま下って行きます。そして、当時としては近代的な飛行艇(プロペラ船)がけたたましい音を響かせて走っていたのです。

 周囲の緑を背景にした、そうしたようすは誠に壮観であるとともに、人々の厳しい生活を物語る歴史図でもあったのです。(「さくま昔ばなし」初版より・原文のまま)


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「豆こぼし」 天竜川の激流を下る筏の写真は、佐久間町のホウジ峠「佐久間民俗文化伝承館」に掲げられていたもの。2枚目の写真は、小和屋から見下ろした「豆こぼし」。佐久間ダムが建設されて以降、現在の「豆こぼし」付近は、「昔ばなし」とは違って水量も少なく、穏やかな流れとなっています。

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