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2017年12月11日

光明寺の境内散策⑦―「力道山」の名が残る番付額

番付額 大正13年(1924)11月14日生まれ、本名「金信洛」、日本名「百田光浩」。二所ノ関部屋所属の「力道山光浩」と言うよりも、プロレスラー「力道山」としての印象が強いのですが、ここ光明寺奥の院には力士時代の「力道山」の名が残されています。

 「大関 天龍三郎」の名の残る番付額の反対側に掲げられている番付額の中、右から2人目に「関脇 力道山光浩」の名前があります。

「関脇 力道山光浩」の名前 初土俵は昭和15年5月、135勝82敗15休の戦歴を残して同25年に角界を去り、空手チョップで外国人レスラーをなぎ倒す大活躍。同38年(1963)12月15日に刺殺されました。

 番付額の中では「長崎」出身となっていますが、本当の出身地は朝鮮半島咸鏡南道(現・北朝鮮統治範囲)。そんな出生のことなどまったく知らないまま、私は「力道山」のパフォーマンスに興奮し、「死んだ!」と聞いた日に、似顔絵を描き上げた思い出があります。

 あの頃の「力道山」に会うには、山東の光明寺奥の院をお訪ねください!



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