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2017年12月10日

光明寺の境内散策⑥―関西角力協会の番付額

関西角力協会の番付額 光明寺奥の院の祀られている「摩利支天(まりしてん)」は、陽炎(かげろう)を神格化したものと言われ、必勝祈願の神として、武士だけでなく相撲の力士からも信仰されました。

 光明寺奥の院には、相撲の番付額が奉納されていました。

 主催として名前が書かれているのは「取締 大ノ里萬助」。大正13年(1924)5月場所に9勝2敗の好成績を挙げて大関になりましたが優勝経験はなく、昭和10年(1935)に引退してからは取締を務めた人とのこと。

 もう1人気になる四股名があります。それは東の大関「天龍三郎」のこと。地元、浜名郡三方原村(現在の北区三方原町)出身で、初土俵は大正9年(1920)1月場所。最高位は「関脇」のはず。ところが、この番付額では「大関」とされています。さて、その訳は・・・?

 昭和7年(1932)1月場所前に起こった、いわゆる「春秋園事件」を知っていますか?大関大ノ里以下、出羽海部屋の西方全関取が中国料理店「春秋園」に立てこもり、相撲協会の体質の改善、力士の待遇の向上などを要求し「大日本新興力士団」を結成した事件の首謀者が、天龍三郎その人だったのです。

 その後、紆余曲折を経て、大ノ里と天龍らは「関西角力協会」を設立。昭和12年(1937)に解散するまで、関西を中心に独自の興行を打っていたのです。

 この番付額は、まさにその時期のもの。「関西角力協会」では大関を張っていた天龍三郎が、地元の「摩利支天」に興業の成功を願って奉納したものに違いありません。年2回の場所が催され、大関天龍は6回の優勝回数を記録しています。

 相撲と言えば日本の国技。江戸時代の初めから綿々と続く長い歴史がある格闘技との印象ですが、長い間にはいろいろな事件が起きていたようです。



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