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2019年02月15日

西鹿島の椎ヶ脇神社について②―「地名“鹿島”の由来」

鹿島橋 むかしむかしの天竜市は、鹿島のあたりから南は、波のあらい大海で、“袖が浦”と呼ばれていた。
 袖が浦には渡し場があったが、海の荒れることが多くて、人々は大変に困っていた。

 時に延暦十五年(七九六)ごろ、えぞ征伐で東国へ下る途中の坂上田村麻呂将軍が、それをうれいて減水を祈願し、潮干の玉を大海に投げ入れた。
 すると海水はたちどころに涸れて洲(水中に現われた土砂)が現れ、陸となっていった。人々は、その陸を“今洲”と呼んだ。
 その時一頭の鹿が今洲に躍り出て、遊び戯れた。それを見た人々は、今洲改め、“鹿島”と言うようになった。

 なお、椎が脇神社裏側の、天竜川にある勇壮な渕、“椎が脇渕”も、元来は“鹿が渕”であるとも言われている。(「ふるさとものがたり天竜・第1章二俣地区」より)

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 椎ヶ脇神社裏側と言うと、「納涼亭」の下辺りでしょうか? 鹿島橋は、美しい上曲弦カンチレバートラス橋です。




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