2018年04月06日
道祖神のまねきにあひて②―水窪地頭方向市場の「双体道祖神」

天明3年(1783)の文字が刻まれていますので、造られたのは今から230年ほど前。これほどまでに露骨な性表現が、なぜ信仰の対象として祀られて来たのでしょう?
内藤亀文著の『ふどき』(平成3年発行)の中に、その答えとも言える記述を見つけました。
道祖神は古くは岐神(くなどのかみ)とか塞神(さえのかみ)とか言い、近くは道陸神(どうろくじん)とも言った。塞神とは外から入って来る厄病神を防ぎ止める神のことで、村境、橋のたもと、四つ辻などに石を立てるのはその意味である。
<中略>
こういうわが国古来の石を尊崇する思想に、インドで石を性器崇拝の神体とし、それを福神としてまつる信仰があり、仏教伝来と一緒にこの信仰がわが国にも入って来て、両者が混合した。だから道祖神として立てるものは大きな石か、或は性器の形に刻んだ石が多い。男女合歓の像を彫りつけるのは、邪神もその前を通るのをはばかると考えたからだ。こうして道祖神は性の神としての特性も帯びているところから、その方面に信仰対象ともなっており、水窪では昔はこれに赤い腰巻をかぶせたり、×××の木彫を奉納したりした。さすがに腰巻はもうあとを絶ったが、×××の木彫ならまだ時々見かけることがある。(内藤亀文著・水窪町役場発行「ふどき」より)

この解説が、絶対的な答えとは言いませんが、この道祖神については私も同じ考えを持っています。現地の解説看板に書かれているような「絶世の美男美女の兄妹が結婚した」との「近親婚」の伝説については、日本の他地域に残る同様の伝説との比較研究が必要です。
「天明3年」と言えば、浅間山の大噴火による降灰のため、世はまさに「天明の大飢饉」。不安が募る山の暮らしの中で、水窪の民がこの道祖神に託した願いとは、一体何だったのでしょう?
祠の中を覗き込み、230年前の人々の暮らしぶりに、しばし思いを馳せてみました。