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2024年05月09日

目で見る掛塚の防災⑭―大日本帝国水難救済会掛塚救難所

「大日本帝国水難救済会掛塚救難所」の標識と看板 今回紹介するのは、掛塚の防災の歴史。それは、遠州灘を往来する船。太平洋へ天竜川が流れ込む遠州灘は浅瀬が多く、また、台風などの強風によって船の難破なども多く発生していたのです。

「大日本帝国水難救済会掛塚救難所」の古い写真 「大日本帝国水難救済会掛塚救難所」の標識と看板とが建てられているのは、遠州大橋東の国道150号掛塚バイパス下(掛塚蟹町)。かつては天竜川と東派川との合流地でもあり、廻船が多く停泊していた掛塚湊があったのは、この辺りでした。

 解説看板によれば・・・

「大日本帝国水難救済会掛塚救難所」の古い写真 掛塚港に出入りする船や付近を航海する船の水難救助のために設置されたもので、明治三二年(一八九八年)九月一〇日に開所式が挙行された。
 明治二六年、元知事小松原英太郎の提言により、地元廻船業者の満場一致の賛同を得て設置願を提出した。明治三二年、建設委員が任命され、開所したものである。
 初代所長に加藤猪之吉氏、救助夫長に中西善三郎氏、看守荒井信敬氏が任命された。
 以後日夜看視にあたり多くの実績を残している。
 明治三四年一月風雨強く、激浪の中、座礁した本町岩間喜一郎氏の持船喜興丸を救助している。


 ・・・とあり、実績も残されています。

「防災フェア in 掛塚」 *今回、「歴史に学ぶ掛塚の防災」と題してレポートさせていただいたのは、5月18日(土)19日(日)に開催する「みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚」主催の「いじゃまいかけつか・2024年春」のテーマを「防災」としたから。正月には能登半島地震が発生し、テレビの画面を通して被災現場の光景を目の当たりにしたことにより、南海トラフ巨大地震に対する備えの必要性がより身近な課題として考える機会としていただきたいと考えました。



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