2019年05月18日
大久保家と淡海国玉神社⑩―拝殿奉納額に残る「大久保」の名
淡海国玉神社拝殿奉納額の中に、代々神官職にあった「大久保」の名が記されていました。
1つは「神輿新調献金者連名表」の横に長い額の中。ズラリと並んだ芳名の最初に、「一金参拾圓 大久保春野」「一金拾五圓 大久保忠利」と2人の名が並んでいます。
「當縣社本殿葺替玉垣新築及矢奈比賣神社本殿前側葺替費寄附金表」には、三間社流造りの本殿が描かれ、大変見にくいのですが、「淡海國玉神社宮司 大久保忠利」(右端)と読めます。
1つは「神輿新調献金者連名表」の横に長い額の中。ズラリと並んだ芳名の最初に、「一金参拾圓 大久保春野」「一金拾五圓 大久保忠利」と2人の名が並んでいます。
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「當縣社本殿葺替玉垣新築及矢奈比賣神社本殿前側葺替費寄附金表」には、三間社流造りの本殿が描かれ、大変見にくいのですが、「淡海國玉神社宮司 大久保忠利」(右端)と読めます。
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三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)に生まれた徳川氏の家臣、大久保忠佐(ただすけ)が、元亀元年(1570)に家康より淡海国玉神社の神主となることを命じられ、忠利が神主を引き継ぐまで300年以上にわたり神社を護って来た「大久保」の名が、奉納額に残るのは当たり前です。
Posted by AKG(秋葉観光ガイド)の斉藤さん at 05:02│Comments(0)
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