2019年05月15日
大久保家と淡海国玉神社⑦―菫園君碑
淡海国玉神社の裏山には、「菫園君碑」が建てられています。
これも、「靜岡縣遠江國磐田郡見附町大久保忠利邸宅」の銅版画に描かれているのですが、その中では「大久保忠尚君碑」ともう1基「西南戦死者招魂碑」と読める石碑が合せて2基あるはず。ところが、私が足を運んでみた限り、石碑は1基しかありません。
銅版画に描かれている石碑の絵と比べてみると、私が見た石碑が「大久保忠尚君碑」のようです。碑面が汚れ、その場では碑文が読めませんでしたが、帰宅後に写真を拡大してみると「菫園君碑」と刻まれているのが分かりました。
「菫園(きんえん)」とは、大久保春野の父、忠尚の号。銅版画の右側に描かれている石碑の絵と、形も同じですから、これが「大久保忠尚君碑」です。銅版画には、この碑文を寄せたのは「明治十八年十一月」と書かれているのですが、石碑裏面には「明治貳十稔九月十八日建設」とあり、建立されたのは2年後だったようです。
これも、「靜岡縣遠江國磐田郡見附町大久保忠利邸宅」の銅版画に描かれているのですが、その中では「大久保忠尚君碑」ともう1基「西南戦死者招魂碑」と読める石碑が合せて2基あるはず。ところが、私が足を運んでみた限り、石碑は1基しかありません。
銅版画に描かれている石碑の絵と比べてみると、私が見た石碑が「大久保忠尚君碑」のようです。碑面が汚れ、その場では碑文が読めませんでしたが、帰宅後に写真を拡大してみると「菫園君碑」と刻まれているのが分かりました。
「菫園(きんえん)」とは、大久保春野の父、忠尚の号。銅版画の右側に描かれている石碑の絵と、形も同じですから、これが「大久保忠尚君碑」です。銅版画には、この碑文を寄せたのは「明治十八年十一月」と書かれているのですが、石碑裏面には「明治貳十稔九月十八日建設」とあり、建立されたのは2年後だったようです。
遠州報国隊の一員として国元留守居役を務めた大久保忠尚は、家伝の書を収めて磐田文庫を創設し、明治13年(1880)に没。「菫園君碑」が建立されたのは、没後7年のことでした。
Posted by AKG(秋葉観光ガイド)の斉藤さん at 05:03│Comments(0)
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