2017年06月17日

遠州報国隊と遠州④―招魂祭祭主任命書

招魂祭祭主任命書 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)ら東征軍は、慶応4年(1868)3月5日から4月7日までは、幕府軍の警備が厚かった富士川を渡る手前の静岡に留まり、8日になって再び江戸に向けて出発しました。

 遠州報国隊に従軍の許可が出されたのは同月9日。江戸城明け渡しの断が下りたのは、直後の同月15日でした。

招魂祭分担 大総督に従って江戸に入った遠州報国隊は芝増上寺に着陣し、江戸の警備や彰義隊攻撃にも参加することになりました。上野での戦闘に参加した後、殉職者の英霊を鎮める招魂祭が催されたのは6月2日。その祭主を務めることになったのが、淡海国玉神社神官であった大久保初太郎(春野)。遠州報国隊、駿州赤心隊に参加した神官たちが祭祀を取り仕切りました。

大久保春野 函館戦争、会津戦争が終結し、慶応4年(1868)9月8日に明治天皇が即位し、慶応から明治へと改元。明治元年11月4日、遠州報国隊は解散し、大久保初太郎(春野)は陸軍大将、長谷川権太夫(貞雄)は海軍主計総監になって江戸に留まりましたが、多くは郷里へと帰り、神職を務めました。

 明治41年(1908)、浜松五社神社境内に建てられた「戊辰之役報國紀念碑」は、現在は五社公園に移転。九段に建立された東京招魂社は、明治12年(1879)に靖国神社へと改称され、現在に至っています。



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