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2017年04月20日

峰之沢鉱山の遺構を訪ねる⑬―碍子

香蘭社製の碍子 峰之沢鉱山のインクライン遺構近くの山の斜面で、ふと足元に転がる碍子(がいし)に目が留まりました。

 碍子とは、電線を張る時、電柱や施設との絶縁に磁器製の器具。峰之沢インクラインの昇降機を引き上げた動力は電気でしたので、辺りには電線が張られていたはずです。

 碍子は何種類か転がっていましたが、その中に1つに「1956」の数字と何か絵のようなものが描かれています。

 調べてみると、この絵は香蘭社の社章。香蘭社の創業は明治8年(1875)でしたが、同3年(1870)には日本初の磁器製碍子の製造に成功している有田焼の会社。そして、碍子に描かれている絵は、香蘭社の社章である蘭です。

 すると、「1956」の数字は、この磁器製碍子が作られた昭和31年(1956)を示しているのか。峰之沢鉱山が閉山されたのは同44年(1969)でしたので、碍子には13年間電線が張られていたことになります。

日本碍子製 また、碍子は香蘭社製のものだけではなく、○と△を組み合わせたような記号の焼き付けられたものもありました。

 このマークを調べてみたところ、現在の日本ガイシ、当時の日本碍子製のものと分かりました。 日本碍子とは大正8年(1919)に、日本陶器(現ノリタケカンパニー)から分離し設立された、社名の通り、碍子の専門メーカーです。

 歴史を遡れば、日本に碍子を持ち帰った最初の人物は、慶応3年(1867)オランダ留学で電信技術を学んだ榎本武揚だったとのこと。この時には実用化はされませんでしたが、明治15年(1882)に東京・銀座に日本初の電灯(アーク灯)が点されたのは、よく知られるところです。

 日本の近代化に大きく貢献した電気ですが、明治40年(1907)久原鉱業(後の日本鉱業)によって買収され、本格的な採掘が始まった峰之沢鉱山でも水力による自家用発電が行われていました。

 その電気を施設全体に届ける電線を張る時に必要不可欠だった絶縁器具が碍子。昭和44年(1969)に閉山され、その役割を終えましたが、今もインクライン遺構近くの山の斜面に散乱して残っていたというわけです。



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