2024年10月25日
奥三河・足助のまち歩き⑱―お釜稲荷
「JAあいち豊田 足助支店」前の道路に、大きな赤い鳥居がありました。鳥居をくぐり、その先へ歩いて行くと、やはり赤い鳥居と1段高いところに赤い祠があり、その脇には大きな釜が。
そして、立てられていた赤い幟には、白抜きで「正一位 足助山お釜稲荷大社」の文字があり、解説看板によると・・・
二十二、お釜稲荷
足助領主本多家(天和元年=一六八一~)の守護神であった後陣屋稲荷を昭和三十年にお釜稲荷としてここにまつりました。伝説によれば平六老人の一升釜一と炊きでどれだけ多くの人でも用を足せたといいます。祠をまつる釜は直径二Mでこの大きさの釜は大へん珍しいといわれております。
足助町文化財保護委員会
・・・なるほど、ただの商売繁盛だけにととどまらず、地域の住民が生涯食うに困らないことを願った神社かな?
緩やかにカーブした道の脇には「足助山稲荷道」と刻まれた道標が建てられ、「是より約三丁」とも刻まれていましたので、その先へと歩いてはみたのですが、歩けど歩けど、本宮らしい建物には辿り着けませんでした。
そして、立てられていた赤い幟には、白抜きで「正一位 足助山お釜稲荷大社」の文字があり、解説看板によると・・・
二十二、お釜稲荷
足助領主本多家(天和元年=一六八一~)の守護神であった後陣屋稲荷を昭和三十年にお釜稲荷としてここにまつりました。伝説によれば平六老人の一升釜一と炊きでどれだけ多くの人でも用を足せたといいます。祠をまつる釜は直径二Mでこの大きさの釜は大へん珍しいといわれております。
足助町文化財保護委員会
・・・なるほど、ただの商売繁盛だけにととどまらず、地域の住民が生涯食うに困らないことを願った神社かな?
緩やかにカーブした道の脇には「足助山稲荷道」と刻まれた道標が建てられ、「是より約三丁」とも刻まれていましたので、その先へと歩いてはみたのですが、歩けど歩けど、本宮らしい建物には辿り着けませんでした。