2019年07月06日
秋葉山、久保田道を行く④―3体並ぶ石仏

順番に従って見て行くと、右の石仏に刻まれている文字は「廿二」でしょうか?
「廿二番」札所は総持寺(そうじじ)。本尊は千手観音のはずですが、顔を無くしたこの石仏は、蓮華を持つ姿から聖観音と思われ、一致していません。21番札所の穴太寺(あなおじ)だとすれば本尊は聖観音となりますが、ご詠歌は総持寺の「おしなべて たかきいやしき そうぢじの 歩とけのちかひ たのまぬはなし」と読めます。
寄進者は「和田重太助」でしょうか?

見た目の大きさや、ご詠歌を配した造りなど、今まで見て来た石仏と変わらないのですが、造立年は「文化十二年」のようにも見えます。寄進者が「當所」ではなく「平木村」と、明らかに地元・春野町平木の地名が登場しています。
また、舟形光背の造りと「廿」ではなく「二十」と刻まれている点にも、同じ石工の作とは思えない節があります。この後の石仏では、すべて「二十」と刻まれています。
向かって左の石仏は、これまでの舟形光背に浮彫されたものとは違っています。蓮華座に弘法大師の持物である五鈷杵(ごこしょ)らしきものを抱く僧衣の坐像ですが、後世での補修と思われる四天王に似た頭部が乗せられています。

番外と言えば、西国三十三所の番外札所として花山法皇ゆかりと伝えられる京都の元慶寺(がんけいじ)。この石仏が、払子を持つ花山(かざん)法皇の可能性もあります。
3体並ぶ石仏を見ると、久保田道の石仏をあまりのきれいに札所番号の順に並べようとした無理が感じられます。北遠の違う場所でも、廃仏毀釈の風により、西国巡礼供養塔が1ヵ所にまとめられているのを見かけます。もしかしたら、久保田道の石仏も、明治以降にある意図を持って並べられたものかも知れません。
ただ、この久保田道には、かつて「塩の道」とも呼ばれた流通の道の1つであった雰囲気が漂っています。さあ、しばらくは平坦な道となりそうです。