2017年04月16日
掛塚湊の面影を訪ねて②―旧堤防跡

現在の堤防から斜めに下る道は、ちょうど旧堤防があった辺り。掛塚湊として栄えた頃の堤防の内側、つまり天竜川の流れに近い帯状の区域には、川を下って来た船や駒場付近に停泊した大型船との間を往来する艀(はしけ)が停泊する艀溜まりや、天竜材を加工する木挽き小屋などが立ち並んでいたそうです。
当時の浜松県で算定した課税地価によれば、一番高かったのは、当時から商店が軒を連ねた現在の浜松市中区田町、東区笠井町、そして、掛塚の艀溜まり付近だったとのこと。租税制度を「年貢」から「地租」に改めた明治政府にとって、地価の算定は経済発展による社会変化を反映したもの。それほどまでに繁栄していたのが、掛塚湊だったのです。