2020年02月05日
磐田・歴史の道を歩く①―鳥人・幸吉の墓

八浜に伝わる話では、「仕事場にいなくなったと思うと、近くの蓮昌寺の境内に来て、ハトの群れをじっと眺めていたことがたびたびあった」という。一羽のハトをつかまえると、翼の大きさと体重を計り、自分の体にあうように竹と紙で片翼ずつ作り、両脇にくくりつけて胸の前の棒を動かして羽ばたく仕掛けにした。
天明六年(1786)旧暦六月の夜八時頃、28歳の幸吉は岡山市の中央を流れる旭川の京橋から、「エイッ」とばかりに欄干をけった。羽ばたくには腕の力が足りなかったが、翼は水平に固定され幸吉は見事に滑空した。飛んだのは「七〇歩ばかり」というから約五〇メートルほど、ライト兄弟が初めて飛行した年よりも118年も前のことである。河原で夕涼みをしていた連中はびっくり仰天、「天狗だ」とばかりお上へ通報。このようなことが許されない封建時代のこと、たちまち翌朝には御用となり翼は没収、岡山城下から所払いとなった。
八浜に戻った幸吉は船乗りになり、静岡へ来て雑貨商「備前屋」を開業、かなり繁昌した。自分はかつて覚えた入れ歯作り、時計修理を副業としていたが、空へのあこがれ止み難く、51歳のとき、体力的に最後のチャンスと、またもや安倍川の河原で家族や職人の引く綱に引っ張られて空中散歩を楽しんだ。これまたお上の知るところとなり静岡を追放となった。大和田友蔵の世話で見付宿へやって来た幸吉は飯屋を営み(見付郵便局付近)、弘化四年(1847)8月21日九〇歳で波乱の人生を閉じた。二番町大見寺の墓地に「演誉清岳信士」と刻まれた墓石が現存し、過去帳にも記載されている。(「中遠昔ばなし・第89話」より)
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そして、大見寺本堂に展示されている、幸吉が空を飛んだ飛行機の模型を見上げれば、あの鳥人が磐田に住んで、磐田の土になっていた伝説の世界が目の前に蘇りました。