2020年02月06日
磐田・歴史の道を歩く②―見付端城

当時の遠州地方は、今川義元が勢力をもっていて、北からは武田方がねらっていたり、その他の大名も自分の勢いを伸ばそうとして、全国的にも争いの絶えない戦国時代でしたから、この磐田地方でも、いつ戦争が始まるかわからないという状況にありました。
見付城は、磐田市二番町の大見寺から磐田北小学校周辺にあって、「見付端城(みつけはじょう)」とも呼んでいましたが、地主は掘越用山[掘越氏延、掘越六郎等といくつかの説があります]で、見付地方にとっては良い政治が行われていました。
この頃、浜松の大河内備中守貞綱が今川義元と争っていましたが、掘越用山は大河内貞綱に味方していたので、今川氏は北遠に勢力をもっている天野宮内右衛門虎景に、見付城を討つように命令が出されたのでした。
家老茨木弾正は、見付城の一大事ですから、向笠城[磐田市向笠竹之内]や屋城山城[旧磐田郡豊岡村]へ、応援を依頼するため馬をとばしました。城主のことが気になりますので、お使いを済ませて大急ぎで帰ってきますと、はるか南の見付城のあたりから煙があがっております。近づいて見ると、見付城は猛火に包まれていて、陥落寸前でした。これを見た弾正は、もうこれまでと覚悟して、茨木にある自邸に戻り、自害して果てました。
茨木弾正の屋敷は、磐田市住吉町の県道磐田山梨線沿いの、天神社と元天神社の中間に位置していました。この地には、山住神社を勧請して賑わったこともあったと言われていますが、現在は高台の松林になっていて、茨木団地が造成されています。横の坂をバラキ坂と呼んでいます。その西の方に茨木という小字が残っていますが、ここが茨木弾正の屋敷跡だと伝えられています。(「中遠昔ばなし・第104話」より)
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大見寺裏に見付端城が造られたのは、室町時代初期。今川氏によって築かれたと言われ、大見寺には確かに土塁と思われる土盛りが残っています。
城之崎城の築城により、見付端城は廃城となりましたが、水の手の確保に問題があったとのことで、城之崎城は完成することはありませんでした。
これが、城がない磐田の歴史。次に、明治になって磐田の地に建てられた新時代の城とも言える見付学校を訪ねることにしましょう。