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2024年06月06日

富幕山から幡教寺跡へ②―「幡教寺舊趾石碑」と供養塔

「鳳來山幡教寺奥之院址」の石柱と石碑 幡教寺跡には、「鳳來山幡教寺奥之院址」と刻まれた石柱が建てられ、その横には石が倒れ、表面に小さな文字が刻まれています。その内容については、三ヶ日町教育委員会の解説看板に丁寧に書かれていましたので、そのまま写してみました。

「幡教寺舊趾石碑」「幡教寺舊趾石碑」書き下し文
  幡教寺舊趾
此ノ山ハ我ガ瑠璃山幡教寺ノ舊趾ニシテ、清和天皇ノ貞観十七年乙未教待和尚ガ開基スル所ナリ。此ニ在ルコト三百三十三年ニシテ土御天皇ノ承元々年丁卯阿闍利明性勅ヲ奉ジテ前ノ山ニ移ス。乃ハチ今ノ瑠璃山ニシテ改メ号シテ大福寺醫王院ト曰フ。承元丁卯ヨリ今茲文政丙戌ニ至ルマデ六百二十年ナリ。先世ノ墓碑ノ存スル者十一余、基石小池ノ如キ尚ホ之ヲ観ルベシ。
則ハチ舊趾顕然トシテ誌ヲ待タズトモ知ル可キナリ。或ハ恐レ百千年之後ニ基廃レ池埋レテ其ノ処ヲ知ル由無キコトヲ謹シミテ以テ今見聞スル所ヲ石ニ刻ミテ後ニ徴スト云フ。
 文政九年ノ歳次丙戌春三月瑠璃山大福寺現住法印快雅誌ス。
                三ヶ日町教育委員会


「幡教寺舊趾石碑」の看板 つまり、石の表面に刻まれているのは、文政9年(1826)3月に、当時の大福寺住職が、ここが幡教寺址であり、幡教寺が里へ下り大福寺となったと記した文。幡教寺跡が荒れて行き、人々の記憶からも消えてしまうことを危惧し、この碑を刻んだのだろうと思われます。

供養塔 そして、その脇に並んだ石塔は、多分、歴代住職の供養塔。里の集落からはかなり離れた深い山の奥にあった寺の跡。機会があれば、もう一度訪れてみようと思いました。




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