2022年07月02日
旧東海道御油宿から赤坂宿まで歩く⑨―赤坂刑場跡
赤坂代官所の刑場で慶安の頃創設、数百人を処刑明治二年七月四日三人の処刑を最後に廃止、天保の大一揆による三河農民大一揆、甲斐農民大一揆、大阪の大塩平八郎乱の三大一揆を水戸藩主徳川斉昭が将軍家斉に提出した建白書を老中水野忠邦による天保改革の要因をなした三河農民大一揆は、天保七年九月二一日数年来凶作相続き露命つなぎかね蔵米等の払い下げを要求し 加茂郡下河内村松平辰蔵、九久平仙吉ら八十人が蜂起し二百七ヶ村一万五千人に拡大、赤坂代官平岡熊太郎は岡崎藩、誉母藩に鎮圧を要請両藩の鉄砲隊に射殺された廣瀬村の佐右ヱ門らの死傷者を出し農民を捕えたが、赤坂大日牢に収容できず仮牢屋を造り首謀者らを投獄、江戸勘定留役沼田久左ヱ門、松井勘右ヱ門の応援を求め取調中、九久平村の繁喜、北川向村の仙蔵、松平村の柳助、栃本村藤兵ヱは苛酷な拷問に耐へず哀れにも天保八年三月八日早朝牢番の隙をみて首を括って牢死、刑場に埋葬された、翌日九日、松平辰蔵、仙吉、市野田村の円左ヱ門、川見村の金左ヱ門は物陰から肉親の贈る中を唐丸篭で江戸送り、処刑前の天保九年四月八日、江戸小伝馬牢内で獄死、同月二六日より赤坂代官は、追放、手鎖、入墨、過料に、一二、三六六人を処罰、三河最大の農民一揆は一年九ヶ月をへて終了、赤坂刑場の南無妙法蓮華経の碑に一揆関係者が天保十四年卯秋に建立した悲願の供養塔である。
昔へに埋もれし霊をかへり見て
時の流れそ哀れとそ思ふ