2020年01月19日

東海道・木原を歩く④―許弥神社の由来

許禰神社 西地区木原の許弥(こね)神社は昔「木原権現社(きわらごんげんしゃ)」といっており、神社が出来た時のお話です。

 第40代文武天皇の頃(今からおよそ1300年位前)のお話です。

 木原の西を流れる大きな川がありました。ある時、大雨が降り川の水がふえて堤防がきれ田畑は荒され、村人は苦しみました。

 その後、年月は過ぎ永保2年(1082)3月、村人が集まって相談し堤防を造る事に決めました。

 それから堤防の工事に取りかかったのですが、思うように工事はすすみませんでした。ある時、その堤防に積んでおいた芝の上に「白幣(はくへい)」が現れ、どこからともなく烏がまって来てその様子が何んとも不思議でした。皆んなが不思議そうにこの様子を見ていると、一人の小さな子供が走ってきてこんな事を言いました。

 「我は熊野権現(くまのごんげん)なり。この地は我の霊地なり。ずっと以前からこの地に我は鎮座しておる。我をこの地に祀ってくれれば、水難を除き五穀豊穣なる事うたがいなし………。」

と言って姿を消してしまいました。  人々は、この不思議な出来事にびっくりすると共に有難く思い、さっそく神社を造り白幣を納め、木原権現(きわらごんげん)と名付けました。

 それ以後木原の村は水難もなく、お米を始め作物は毎年のように豊作に恵まれたという事です。

 その後、後醍醐天皇の時代に許弥(こね)神社といわれるようになりました。(「中遠昔ばなし」第121話「袋井に伝わる昔話」より)

    ◆       ◆       ◆       ◆

許禰神社 太田川と原野谷川に挟まれた木原は、洪水や液状化の恐れを感じさせる地域。許禰(こね)神社境内には、幅の広い堀(水路)に架けられた橋を渡って足を踏み入れるようになっています。



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