› 自然と歴史の中を歩く! › 歴史・産業遺産・寺社・文化財 › 久根鉱山について考える⑤―農業や山仕事を捨てて働く

2018年09月19日

久根鉱山について考える⑤―農業や山仕事を捨てて働く

「久根鉱山」跡 鉱山で働くことによる弊害は、公害被害だけではありませんでした。『下平山諸事書留』には、次のように記されているそうです。

 「鉱山採鉱および製煉事業起り、人民各々本業たる農事を怠り、その事業に従事せり。しかるにこの事いつの頃か中止するに及びて、人民一時に生業の途を失い、大困難をきわめ、はじめて農業を怠りたることを悔いたるもすでに遅く、此の頃戸数五十六戸中、二十六戸は絶家となり、他所に移住せり・・・」

 「下平山」とは、「天竜区龍山町下平山」のことで、ここに書かれている「鉱山」とは「峰之沢鉱山」のこと。人々は農業や山仕事を捨てて鉱山で働くようになりましたが、潮が引くように鉱山景気が去ってからは、二度と元の仕事には戻らず、集落を出て行ったと書かれているのです。

 明治33年(1899)に古河鉱業が経営に乗り出した「久根鉱山」の当時の人員は、抗夫と雑夫を合わせて22人。その後、増加の一途をたどり、大正5年(1916)には、抗夫3000人、職員200人を数えました。これが久根全盛の時代です。

「久根鉱山」跡 戦後は昭和35年(1960)の950人をピークにして人員は減少し、閉山された昭和40年(1965)にはわずか130名。そしてついに、二度と発破の音が山に響くことはありませんでした。

 今まだ、久根の山には廃坑跡がそのまま放置されています。旧「山香小学校」に通っていたと話すお年寄りは、「私たちも佐久間を離れてしまったけど、もっと遠くに行ってしまった家族もたくさんいる。同窓会をすると言っても、何人も集まらないね」と、寂しそうに話してくれました。「『恨みの山』でも、故郷は故郷。懐かしいから、こうしてたまには来たくなる」。

 【関連記事】久根鉱山について考える①―歴史の1ページ
 


同じカテゴリー(歴史・産業遺産・寺社・文化財)の記事

Posted by みんなと倶楽部 ⚓ 掛塚・斉藤さん at 04:54│Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
久根鉱山について考える⑤―農業や山仕事を捨てて働く
    コメント(0)