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2018年02月21日

賀茂神社を訪ねる②―二葉葵紋と将軍になりそこねた徳川家達

二葉葵紋 討幕軍として立ち上がった神官たちで組織した遠州報国隊に大きな影響を与え、遠州国学の祖とも言える賀茂真淵が宮司を務めていた賀茂神社の神紋は「二葉葵紋」。拝殿の破風の蕪懸魚の上と社殿屋根とに、「二葉葵紋」が見られます。

 葵紋と言えば、徳川家の「三つ葉葵紋」が有名ですが、この「三つ葉葵紋」の元になったのが、賀茂神社の「二葉葵紋」だと言われ、徳川家は賀茂一族の出である、との説もあります。

二葉葵紋 そんな徳川家とも縁が深い賀茂神社の宮司が、徳川幕府を倒そうと決起した「遠州報国隊」の尊王思想を導くことになったとは、不思議な因縁です。

 神社境内には、かつて境内社として建てられた縣居神社跡に「縣居神社遺址」が建てられ、この碑文を揮毫した「公爵徳川家達」の名が刻まれています。

「縣居神社遺址」の碑 徳川家達(いえさと)とは慶頼(よしより)の三男、徳川宗家の16代当主であり、本来なら将軍となるはずだったのですが、14代将軍家茂(いえもち)死去の年、まだ4歳と年少だったため、最後の将軍は一橋家の慶喜(よしのぶ)へお鉢が回ることになりました。

 明治維新となり、家達は新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、駿府藩主として70万石を与えられ、明治2年(1869)には初代静岡藩知事に任命され、明治17年(1884)には公爵を授けられています。

 この家達が「縣居神社遺址」の碑文を揮毫したのも、これまた不思議な因縁。新政府は、徳川家を根絶やしにしなかったばかりか、慶喜でさえ明治35年(1902)には公爵に叙し、貴族院議員にも就いたのでした。



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Posted by AKG(秋葉観光ガイド)の斉藤さん at 05:15│Comments(0)歴史・産業遺産・寺社・文化財
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