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2017年06月18日

光いっぱいの光明山遺跡⑬―ふるさとものがたり天竜「『家康の腰かけ石』と『梯子坂』」

徳川家康腰掛石 天正三年(一五七五)徳川家康は、それまで武田方に奪われていた二俣城を攻めるに当たり、まずその近辺の犬居城、光明城を落として、二俣の城を孤立させることを考えた。
 そこで森方面から兵を進めて、犬居城を守る天野軍を攻めようとしたが、天野軍はいち早くそれに気づき、
「犬居の城は、守り弱い。ひとまずこの奥の、気多の砦に退こう。」
と、言って、逃げてしまった。
 家康軍は、その時すでに犬居の近くまで、兵を進めていたのであるが、急に大雨が降り出して、近くを流れる気田川が見る間に増水し、水があふれ始めた。家康軍は、進むに進めず、引くに引かれず、立往生となった。
 やがて雨が上がって、水も引き始めた。そこで家康が、
「ともかく、ひとまず引き返そう。」
と、言って向きを変えた時、
「殿、一大事にござります。後ろから、天野軍が攻めてきますぞ。」
と、偵察隊がかけつけた。すると、
「殿、一大事にござります。前から、光明城の松井軍が攻めてきますぞ。」
と、これも偵察隊がかけつけた。
 地理に不馴れな山の中で、腹をすかせた徳川軍は、大さわぎとなった。
 それでも徳川軍は、草木のおい茂る山の中を逃げに逃げて、とうとう光明寺にたどりついた。

 すると光明寺の住職高継和尚は、家康をあたたかく迎えたが、武田方に夜襲の企てがあることを知って、家康を“鹿の通い路”という間道に案内して、光明寺の奥の院にかくまうことにした。
 ところがその間道は、人も通らぬほどのけわしい坂道だったので、家康はとうとう梯子をかけて、その坂を登ったという。
 疲れ果てて、奥の院に着いた家康は、
「ああ、くたびれたわい。」
と、言って、そこにあった庭石に腰かけて、しばし休息をとった。
 それでその石を『家康の腰かけ石』、そして梯子をかけて登った坂を『梯子坂』、別名“雲の梯”というようになった。
 家康の腰かけ石は、旧光明寺大黒殿より、東十五メートルにある岩である。

 家康はこの光明寺奥の院に、勝利祈願をして旗揚げし、素早く光明城攻撃にとりかかった。
 不意をつかれた武田方は、まだ大勢が整わぬまま、梯子坂の大激戦となり、ついに力つきて城をあけて降参した。(「ふるさとものがたり天竜・第8章北遠天竜における徳川家康」より)

   ◆       ◆       ◆       ◆

アクトタワー さて、「徳川家康腰掛石」とされているのが、この石のはずですが、奥の院からはかなり離れています。真実は歴史の彼方。眺望を妨げていた竹藪が伐採され、アクトタワーがすぐ近くに見えました。

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