2019年11月16日
姿を消した弁天岩③―弁天岩のあった場所
船明(ふなぎら)の天竜川の流れにあった「弁天岩」の場所を示す写真が、長養寺にはもう1枚ありました。モノクロ写真に白く写る天竜川が蛇行する左岸寄りに見える三角形の黒い影。これが、「弁天岩」だと思います。
船明ダムの完成直前と思われる時期に撮られた航空写真にも、それらしい岩が写っています。現在の写真と対照してみれば、おおよそ現在の諏訪神社の先に当たる場所。岩と言うよりも、島に近い大きさだったようです。
もう1つ、空から見た過去(モノクロ)と現在(カラー)の船明を比べて分かること。ダム工事後の天竜川の蛇行は確かに緩やかになっています。また、船明の対岸に写っている日明(ひあり)の集落が消えています。
船明ダムの完成直前と思われる時期に撮られた航空写真にも、それらしい岩が写っています。現在の写真と対照してみれば、おおよそ現在の諏訪神社の先に当たる場所。岩と言うよりも、島に近い大きさだったようです。
もう1つ、空から見た過去(モノクロ)と現在(カラー)の船明を比べて分かること。ダム工事後の天竜川の蛇行は確かに緩やかになっています。また、船明の対岸に写っている日明(ひあり)の集落が消えています。
つまり、近代化とか社会資本の整備とは、こういうこと。敗戦国の日本が、欧米に追いつくことを目標に急速に行った社会資本整備により、船明の景勝「弁天島」が姿を消しただけではなく、1つの集落の歴史ある文化も生活も失われてしまったのです。