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2018年02月14日
光明山「奥の院跡」を訪ねる⑤―ふるさとものがたり天竜「隠れ岩と小豆坂」
元亀三年(一五七二)に、北遠の要である天竜二俣城を、武田信玄に奪われてしまった徳川家康、一日も早くそれを取り返して、武田に対する徳川方の根城としたかった。
そこで二俣城攻略に先だち、光明城を落とそうとして、家康はしばしばその山中で、武田軍と戦っている。
天正三年(一五七五)のこと、光明山中で武田軍と戦った家康は、またまた苦戦をしいられ、ほうほうのていで、深い山の中へ逃げ込んだ。するとちょうど手ごろな洞窟があったので、家康はそこに隠れて息を殺し、しばしの休息をとっていた。
一方、武田の大将勝頼は、腹をすかせて近くの百姓家のかけ込み、
「これ、百姓。一番早く煮える食べ物は何か。」
と、たずねた。
すると百姓が答えて言うには、
「殿さま、それは小豆の塩煮でございます。」
「わかった。では、大急ぎで煮てくれ。」
と、言いながら、勝頼もしばしの休息をとることにした。
ところが小豆の塩煮は、早く煮えるどころか、一番時間のかかる煮物であった。勝頼はそんなこととはつゆ知らず、ゆうゆうと休んでいた。
しのびの知らせで、それを知った家康は、
「こりゃあ、しめた。」
とばかりに、洞窟をはい出して、すたこら逃げてしまった。
それで家康が隠れた洞窟を、『隠れ岩』、両者が戦ったところの坂を『小豆坂』、と呼ぶようになった。
なお小豆坂には、小豆のような赤い石がたくさんあるので、小豆坂(赤豆坂)と呼ぶようになったのだとも言われている。
隠れ岩は、旧光明寺奥の院の、東南崖下にある洞窟のことである。(「ふるさとものがたり天竜・第8章北遠天竜における徳川家康」より)
◆ ◆ ◆ ◆
史実を云々するよりも、家康に関する伝説が各地に残されていることが「北遠」ならではのことかも知れません。
そこで二俣城攻略に先だち、光明城を落とそうとして、家康はしばしばその山中で、武田軍と戦っている。
天正三年(一五七五)のこと、光明山中で武田軍と戦った家康は、またまた苦戦をしいられ、ほうほうのていで、深い山の中へ逃げ込んだ。するとちょうど手ごろな洞窟があったので、家康はそこに隠れて息を殺し、しばしの休息をとっていた。
一方、武田の大将勝頼は、腹をすかせて近くの百姓家のかけ込み、
「これ、百姓。一番早く煮える食べ物は何か。」
と、たずねた。
すると百姓が答えて言うには、
「殿さま、それは小豆の塩煮でございます。」
「わかった。では、大急ぎで煮てくれ。」
と、言いながら、勝頼もしばしの休息をとることにした。
ところが小豆の塩煮は、早く煮えるどころか、一番時間のかかる煮物であった。勝頼はそんなこととはつゆ知らず、ゆうゆうと休んでいた。
しのびの知らせで、それを知った家康は、
「こりゃあ、しめた。」
とばかりに、洞窟をはい出して、すたこら逃げてしまった。
それで家康が隠れた洞窟を、『隠れ岩』、両者が戦ったところの坂を『小豆坂』、と呼ぶようになった。
なお小豆坂には、小豆のような赤い石がたくさんあるので、小豆坂(赤豆坂)と呼ぶようになったのだとも言われている。
隠れ岩は、旧光明寺奥の院の、東南崖下にある洞窟のことである。(「ふるさとものがたり天竜・第8章北遠天竜における徳川家康」より)
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史実を云々するよりも、家康に関する伝説が各地に残されていることが「北遠」ならではのことかも知れません。
この記事へのコメント
なるほどねえ。
おもしろいですねえ。
おもしろいですねえ。
Posted by おらん家の暖かばたけ at 2018年02月14日 14:44