
2018年02月15日
光明山「奥の院跡」を訪ねる⑥―ふるさとものがたり天竜「光明の鏡岩と四十八瀬川」
北遠の山の神の統領といわれる“笠鋒坊(りゅうほうぼう)大権現”をおまつりした、明鏡山光明寺の元奥の院本殿。その右側一帯の断崖を、『鏡岩』という。この鏡岩は、古くは、光明山信仰の象徴となっていたもので、
“昼は樹上に光を放ち、夜は岩が光り輝く”
と、言い伝えられ、遠州の奇石の一つに数えられている。
また、むかし遠州灘を行き交う船は、これを燈台代りにしたともいう。
この鏡岩を有する光明山は、別名“鏡山”とも言い、かつて光明小学校長、神村直三郎先生作詞の光明村歌の中で、
四十八瀬の川水と ともに住みゆく里人の
朝夕むかう鏡山 光明村のまもりなり
と、うたわれている。
光明地区を流れ下って、やがて二俣川となる清流『四十八瀬川』と呼ぶゆえんは、この村歌からきていると、地元の古老は伝えている。
なお光明山山頂にあった光明寺と奥の院は、昭和六年の火災焼失後、山東に再建されている。(「ふるさとものがたり天竜・第3章光明地区」より)
◆ ◆ ◆ ◆
鏡のようだったという岩は、現在は樹木に覆われて写真には撮れません。1枚めの写真が「鏡岩」の看板が出ている岩ですが、実際には1つの岩のことではなさそうです。2枚目の写真は、「奥の院跡」に切り立つ岩壁。
光明山は、「光明断層」とも呼ばれる赤石裂線上に位置し、地殻変動により脆い「三波川変成帯」の岩石が大崩落を起こした可能性があります。かつては、山頂付近に垂直に切り立つ大岩が遠州灘を航行する船からも見え、位置を確認するための目印にしたのでしょう。
「四十八瀬川」については、寛政10年(1798)に著された『遠山奇談』にも書かれています。
卯月九日は山東村(やまひがしむら)にかゝり、五十町の間に四十八瀬川あり。往来四五丁ゆきては谷川四十八度わたるゆゑ四十八瀬川といふなり。それより光明山といふて上下(のぼりくだり)百丁、ことばにもいひがたき瞼岨難所にて、木々覆ひかゝりて日影を知らず、いと物すごくしてつねは往来もまれなり。
その名の由来は「村歌」よりも前であるのは間違いないようです。
“昼は樹上に光を放ち、夜は岩が光り輝く”
と、言い伝えられ、遠州の奇石の一つに数えられている。
また、むかし遠州灘を行き交う船は、これを燈台代りにしたともいう。
この鏡岩を有する光明山は、別名“鏡山”とも言い、かつて光明小学校長、神村直三郎先生作詞の光明村歌の中で、
四十八瀬の川水と ともに住みゆく里人の
朝夕むかう鏡山 光明村のまもりなり
と、うたわれている。
光明地区を流れ下って、やがて二俣川となる清流『四十八瀬川』と呼ぶゆえんは、この村歌からきていると、地元の古老は伝えている。
なお光明山山頂にあった光明寺と奥の院は、昭和六年の火災焼失後、山東に再建されている。(「ふるさとものがたり天竜・第3章光明地区」より)
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光明山は、「光明断層」とも呼ばれる赤石裂線上に位置し、地殻変動により脆い「三波川変成帯」の岩石が大崩落を起こした可能性があります。かつては、山頂付近に垂直に切り立つ大岩が遠州灘を航行する船からも見え、位置を確認するための目印にしたのでしょう。
卯月九日は山東村(やまひがしむら)にかゝり、五十町の間に四十八瀬川あり。往来四五丁ゆきては谷川四十八度わたるゆゑ四十八瀬川といふなり。それより光明山といふて上下(のぼりくだり)百丁、ことばにもいひがたき瞼岨難所にて、木々覆ひかゝりて日影を知らず、いと物すごくしてつねは往来もまれなり。
その名の由来は「村歌」よりも前であるのは間違いないようです。