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2017年04月26日

「水窪民俗資料館」で見る養蚕の歴史⑤―蚕種

種紙 蚕種(さんしゅ)とは蚕の卵のこと。蚕に産卵させた紙を種紙(たねがみ)と言い、蚕種製造業者によって製造されました。養蚕農家は、この種紙を購入し、孵化させて、蚕を飼育し繭を生産したのです。

 「水窪町沿革誌」によれば、大正7年(1918)の生産額は、木材19万1,400円・椎茸3万3,000円に対し、生糸26万4,840円・繭16万3,048円。水窪の養蚕・製糸業がいかに隆盛であったかが想像できると思います。

 「蚕種のとり方」

繭売買の取引風景 雄蛾と雌蛾と交尾させる。約1時間で終了するので雌蛾を別紙(尿紙)に移し、紙をゆすると放尿する。放尿したものをこの種紙の上に置いて産卵させる。産卵温度は75°Fを守り、暗い場所で7時間ぐらいで終了する。蚕種によって時間は異なってくる。

 奥山村時代は養蚕業の最も盛んな時代で、蚕種も本町には「水窪蚕業株式会社」があり、専門に種を採種検査を受けて養蚕家に配布していた。この会社は、大正十四年の本町大火で消失した。


 大正14年(1925)の大火では、湯浅製糸工場も消失し製糸業は全廃。養蚕業も次第に衰退して行きました。

 2枚目の写真は、「繭売買の取引風景」。繭の価格を決めるために、繭を1つ1つ検品したのだそうです。その甲斐もあって、横浜市場では「水久保(みさくぼ)糸」として高値で取引されたとのことです。



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