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2020年01月25日

2020年、真冬の青谷を歩く③―「江戸時代の飢饉と二俣騒動」

 江戸時代以前のむかしから、日本の国はたびたび異常な気象状態におそわれて、田畑の作物のできが大変に悪かった。

 特に天明六年(一七八七)は、すでに春先から全国的に天候不順の日が続き、飢饉(不作のために食物が不足すること)が発生した。

 北遠地方もその例にもれず、餓死寸前の村がたくさんあった。人々は、食べ物がなくて、ひもじさに泣く日が続いた。世にいう“天明の飢饉”である。
 一方、物価はどんどん値上がりして、人々の心はいら立ち、百姓一揆や打ちこわしがあちこちでおこって、世の中は騒然としていた。
 二俣周辺の村々でも、食べ物を求めて不穏な動きがおき始めていた。二俣の主な商家五、六軒が、米や酒、その他日用品の売りおしみと買いしめをして、この近辺の物価の値上がりに拍車をかけ、営利をむさぼっているという噂が広まっていたのである。この時すでに北遠の米価は、通常の二倍を越えていた。人々の不安といらだちは、極度に達していた。

 そんな中で、ついにその年天明六年十月十七日、夜十一時ごろ、二俣皆原の山上から、だれが吹くのかほら貝の音が鳴り響いた。それを合図に大園原の方からも、竹筒の音やら人の叫び声やらがわき起こり、それに誘われて集まった暴徒数百人が、手に手に凶器をふりかざしていっせいに二俣村へかけおりて、目ぼしをつけた商家五、六軒をおそい始めた。
 暴徒たちは、手あたり次第に店の商品を奪い出し、家をこわし、乱暴の限りをつくして逃げ去って行った。

 さてそれからが大変であった。
 二俣近隣の村々の住民に対する、役人の厳しい取り調べが始まったのである。役人の命を受けた二俣周辺の村の名主たちは、自分の村の五人組頭を呼び集めて、『二俣打ちこわし騒動』の容疑者さがしに力を入れた。
 その結果、二俣近隣の十四か村から、数百人の容疑者の名前が浮かび上がったが、事件の主犯は船明の甚八、青谷村の八右衛門、上野村の藤蔵の三人だったと言われ、間もなく三人は唐丸かご(江戸時代に庶民の重罪人を入れて護送した竹のかご)に入れられて、江戸送りになったという。

 この事件解決後の天保年間にも、“天保の飢饉”といわれる全国的な大飢饉が発生し、北遠の村人たちも、野山の雑草や、木の根、木の皮など、あらゆるものを食べて飢えをしのいだと言われている。(「ふるさとものがたり天竜・第1章二俣地区」より)

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「佐倉宗五」の看板 現在の天竜区二俣町で「二俣騒動」が起こったのは、天明6年(1786)。農民が商人の米買い占めに反対して起こした打ちこわし騒動は、豊田郡14ヶ村に及んだとのこと。

 内山真龍が著した「真龍書留」には、「七、八百人蜷原の方より押寄せ、新右衛門を打ちこぶし、蔵をも破、酒、たまり、衣類、諸道具悉く打ち砕き」とあり、首謀者として、山東村甚八、大園村甚右ヱ門、東藤平善之助の名前も挙げられています。

 「青谷不動の滝」から少し上に登ったところにあるのが、江戸時代に起きた打ちこわし騒動の歴史を伝えようと作られた「佐倉宗五」の看板。「義民 封建制度の下で 人民の為に命をかけて戦い その生涯を 悲しみと苦しみで終わった 直訴」と書かれていたも1枚の看板は壊れ、文字は埃に埋もれて読めなくなっていました。

 これも、「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」の桜(佐倉)情報の1つとして、お届けします。



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