2018年05月12日
第1回「掛塚まちめぐり」下見ウォーク②―貴「船」神社
「掛塚まちめぐり」のスタート地点となる貴船神社については、「掛塚まつり」が貴船神社例祭であることから、ご存知の人は多いと思います。貴船神社の「きぶね」については、浜北では織布業の発展を意識して「貴布祢」と表記されていますが、掛塚では「貴船」。これは、もちろん掛塚湊に出入りする船の安全航行を紀念してのこと。
では、最初から「貴船」と表記されたのかというと、そうではなかったようです。その証拠としては神社拝殿に掲げられている額。廻船問屋「江戸屋」の津倉世雄によって寄付された「幕末の三舟」の一人「正五位山岡鐡太郎謹書」の墨蹟は「貴布祢神社」とあり、かつて「貴布祢」と表記されていた時代があったことが分かります。
元幕臣の山岡鉄舟(鐵太郎)ですが、明治維新後は徳川家達に従って駿府に住み、静岡藩藩政補翼や静岡県権大参事を務めていたました。また、掛塚に隠れ棲んでいたとの言い伝えもあり、県内には鉄舟の書がたくさん残されています。
では、最初から「貴船」と表記されたのかというと、そうではなかったようです。その証拠としては神社拝殿に掲げられている額。廻船問屋「江戸屋」の津倉世雄によって寄付された「幕末の三舟」の一人「正五位山岡鐡太郎謹書」の墨蹟は「貴布祢神社」とあり、かつて「貴布祢」と表記されていた時代があったことが分かります。
元幕臣の山岡鉄舟(鐵太郎)ですが、明治維新後は徳川家達に従って駿府に住み、静岡藩藩政補翼や静岡県権大参事を務めていたました。また、掛塚に隠れ棲んでいたとの言い伝えもあり、県内には鉄舟の書がたくさん残されています。