2017年10月30日
奥山方広寺を訪ねる⑨―大本堂と「正四位山岡鐵太郎書」の扁額
奥山方広寺は臨済宗方広寺派の大本山。方広寺の大きな本堂は大本堂と呼ばれています。
方広寺があるのは浜松市北区引佐町奥山ですが、山号は「深奥山(じんのうざん)」。正面中央の軒下には「深奥山」の扁額が掲げられています。
額の文字は膠液で溶いた胡粉で書かれていますが、その文字を書いたのは「正四位山岡鐵太郎書」とあり、江戸無血開城に尽力したあの山岡鉄舟(1836~1888)です。
山岡鉄舟が「正四位」に叙せられたのは明治15年(1882)。没年の同21年(1888)には「従三位」を贈られていましたので、この額の文字が書かれたのはその間。明治14年(1881)の山林火災によって方広寺の伽藍の多くが焼失し、明治38年(1905)~大正7年(1918)に再建された大本堂の開堂時に掲げられたものと思われます。
川袋の八雲神社の額は「従五位」、掛塚の貴船神社の額は「正五位」。元幕臣の山岡鉄舟は、明治維新後、徳川家達に従って駿府に住み、静岡藩藩政補翼や静岡県権大参事を務めていたこともあり、県内には鉄舟の書がたくさん残されています。
方広寺があるのは浜松市北区引佐町奥山ですが、山号は「深奥山(じんのうざん)」。正面中央の軒下には「深奥山」の扁額が掲げられています。
額の文字は膠液で溶いた胡粉で書かれていますが、その文字を書いたのは「正四位山岡鐵太郎書」とあり、江戸無血開城に尽力したあの山岡鉄舟(1836~1888)です。
山岡鉄舟が「正四位」に叙せられたのは明治15年(1882)。没年の同21年(1888)には「従三位」を贈られていましたので、この額の文字が書かれたのはその間。明治14年(1881)の山林火災によって方広寺の伽藍の多くが焼失し、明治38年(1905)~大正7年(1918)に再建された大本堂の開堂時に掲げられたものと思われます。
川袋の八雲神社の額は「従五位」、掛塚の貴船神社の額は「正五位」。元幕臣の山岡鉄舟は、明治維新後、徳川家達に従って駿府に住み、静岡藩藩政補翼や静岡県権大参事を務めていたこともあり、県内には鉄舟の書がたくさん残されています。